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原爆忌

今年は広島と長崎に原子爆弾が投下されてから70周年を迎える。

原爆の投下について、日本人の間では、投下しなくても日本は降伏していただろうから、不必要に一般人を殺傷した、という意見が根強い。一方で投下した側のアメリカでは、投下によって日本の降伏が早まった必要悪だった、とする意見が圧倒的に多い。中国や韓国といった国では、日本が悪いことをしたのだから、原爆はその報いなのだ、とする意見が多いようだ。

原爆投下に意義はあったのか?そもそも、事実の積み重ねに過ぎない歴史に対して意義を見いだすのは後世の人間なのだから、意義の有無を議論しても仕方ないのかもしれない。それでも「もしヒロシマ・ナガサキの原爆投下に意義があるならば」という仮定を元に、4つの意義を述べたい。

第1にアメリカ人の命を救ったことである。
アメリカが日本の原爆投下について何ら良心の呵責を感じていないことにも、私は納得できないが理解は出来る。彼らにしてみれば、ヒロシマ・ナガサキの30万人の民間人の命よりも、アメリカ人1人の命の方が余程大切なのである。それが戦争というものでもあるし、黄色人種に対する差別意識もあるのかもしれない。彼らにしてみれば、殺虫剤で無辜のゴキブリを何匹殺そうが、自分たちが安楽に過ごせる方が良いのである。そのことに関して、私は共感は全くしないものの、諦めに近い理解を得ている。

第2に、日本の終戦を早めたと考えられることである。
昭和天皇の言動で、天皇が日本降伏を決めたのが長崎の原爆投下ではなくソ連軍による満州侵攻が直接のきっかけであった、というのも事実である。
(「ご聖断」ソ連参戦で決意 報告の18分後「終戦」側近に指示 公表の「実録」時系列から判明--産経新聞--)
一方で、玉音放送で
「加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル」
(それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。…個人による現代語訳)
と述べていることから、原爆をアメリカが発明し、日本に投下したことが、非常に大きな影響を与えたことは想像に難くない。3月の東京大空襲でアメリカ空軍は300機のB29を動員した。それと同規模の爆撃を、たった1機のB29による原爆投下で可能にしたのである。日本の防空を考えれば、更なる原爆投下を防ぐことは不可能だった。

第3に戦後の日本を資本主義国陣営に入れたことである。
先に述べたように、昭和天皇が終戦を決意した直接のきっかけはソ連軍による満州侵攻であったことが2014年に明かされた。しかしそのことが公開される前は、原爆投下の影響が非常に大きかったとされていた。戦後の日本は(北方領土と樺太を除き)アメリカが中心になって統治することになった。結果論であるが、日本が分断国家にも社会主義国家にもならなかったことは幸運だった。ソ連で粛清された人数や、東側諸国で政治犯として処刑された人数、中国の文化大革命で餓死した人数を考えれば、もし日本が社会主義国家になっていたら原爆投下よりも多くの人が政治的に殺されていた可能性が高い。

第4に多くの世界人類を救ったことである。
もし広島と長崎に原爆が投下されていなかったらどうなっていたか。史実では朝鮮戦争の際にマッカーサーが、満州への原爆投下を提案し、トルーマン大統領によって却下されている。却下された理由は分からない。しかし、原爆投下による惨状をアメリカ人が目の当たりにしたこと、原爆による惨状が世界に宣伝され反核兵器の国際世論が沸いていたことが理由ではないかと考えている。
もし日本に原爆が投下されていなかったとしたら、アメリカが威力も確認していない未使用の兵器利用を躊躇う理由は無くなる。量産され、更に威力も増した核兵器が世界各地に投下され、広島・長崎以上の犠牲者を生んでいたことも十分に考えられる。従って、広島・長崎の原爆投下は、世界人類の命を救ったことになる。見方を変えれば、広島・長崎の尊い犠牲を無駄にしないためにも、私達は核兵器が人の上で三度使用されないように知恵を絞らねばならない。

このようなことを書くと「原爆投下を肯定するのか」と批判されるかもしれない。また、「if」の存在しない歴史に対して、仮定で物事を語るのは相応しくないかもしれない。
しかし、原爆投下は無意味であった、と言うのは原爆の犠牲者は犬死にであったと言うのに等しい、私は考えている。逆に、原爆の犠牲者は決して無駄ではなかったと私は信じたい。そのためには、実に悲しく腹立たしいことであるが、原爆投下にも意義があったと考える、または意義を見いだし、その意義が失われないようにせねばならない。
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白票

選挙期間のインターネット活動の制限が緩和されて、今回が2回目の総選挙になると思う。色々と素性の知れない怪しげなサイトも散見される。

10歳児が、今回の衆議院解散に疑問を抱いた、として
どうして解散するんですか?
では、10歳児にしてはあまりに出来が良すぎるので疑念の声が上がった。その結果、サイトを作ったのは20歳児(自身の身分を偽ることの影響の大きさを理解できない精神年齢の幼さから、このような表現が適切であろう)であることが判明した。

さよなら安倍政権
というサイトでは、嫌らしく目をキラキラさせたキャラクターが描かれ、自民党の候補者を落選させるための指南をしている。

黙ってないで、NO!と言おう。| 日本未来ネットワーク
というサイトでは、適切な候補者がいなかったら白票を投じよう、と呼び掛けている。

僅か2週間の公示期間に、こんなにも沢山の選挙関連のサイトが作られている。実に芳しいサイトばかりだが、一方で極論ぎみのことを訴えて、周囲の関心を得て影響力を持たせる手法は見事かもしれない。

投票したい相手がいなかったら、白票を投じる。これは投票に行かないよりは良い。批判票としては「将来脅威になるかもしれない」と伝えられるかもしれない。棄権してしまったら脅威にすらならない。しかし、結果的には棄権とやっていることは変わらない。より効果的なのは対立候補に投票して、批判相手を落選させることである。更に良いのは、自分から積極的に誰かを支持する、あるいは自分が出てしまうことである。

要は
①支持候補への積極的な投票、自ら出馬を行う
②落選させたい候補者がいれば、自分の中での評価がわずかでも優れている対立候補への消極的な投票を行う
③いずれも同じように支持できなければ白票を投じる
④棄権
という順に優れた行動、ということになる。

基本的に、選挙権を持っている日本人ならば、多少年齢のタイムラグがあるとしても(選挙権は20歳、被選挙権は25歳や30歳)、被選挙権は得られるのである。私自身は選挙に出るほどの能力も無ければ労力も惜しい人間なので、毎回10日間ほど考え抜き、1番マシな人に投票することにしている。

金環日食

本日、太平洋ベルト近辺において、金環日食が起こった。
私の住む地域でも9割方太陽は欠けるのだが、折角だからと有給休暇を頂き、東京・池袋にて日食観察を行った。

朝6時に起きる予定だったが、その前に目が覚めた。
曇りという前日の天気予報に反して朝日が差してきたときは嬉しくて興奮した。
途中薄曇りになったが、日食は概ね良好に観察することができた。
金環日食になったとき、丁度雲が出てきたため、金環日食になった瞬間が良く分からなかったのだが、その後はリング上の太陽を確認できたし、雲間に見える指輪上の太陽を肉眼でも観ることが出来た。
金環日食の5分間もあっと言う間だったが、2時間半の日食ですらあっと言う間だった。

以下、日食のときに撮影した写真。
適宜画像の明るさを変更したり、上下逆転させている。(ピンホール法や虫眼鏡では像が逆になるため)

7時19分日食用双眼鏡
7時19分 【日食グラス】 TO-PLAN 太陽観察専用オペラグラス グリーン TKSM-005(G)を使用

7時24分虫眼鏡
7時24分 虫眼鏡を使用して紙に倒立実像を投影

7時26分オレカ
7時26分 オレンジカードの針穴を通じた光

7時37分生
7時37分 薄曇りになった際に、直接撮影

==以下、私自身の日食の思い出==
小学生の頃から、ニュースになるような日食は欠かさず観てきた。

1番古い記憶は、12月24日、クリスマスイブの部分日食。1991年くらいだったと思うが、記録が見当たらない。当時は、
「ガラスに煤をつけて日食を観なさい」
と言われた。現在の、
「自家製の遮光板は使わずに専用の日食グラスを買いなさい」
と報道されるのとは隔世の感がある。私にとってはたったの20年しか違わないのに。
当日は雪が降っており、雪雲を介して欠けた太陽を観た記憶がある。

次は1997年3月9日の部分日食。丁度日曜日だったので天文台に行った。
中学校で渡されたのか、天文台で渡されたのか、アルミ箔のような遮光板で太陽を眺めた。
ようやく普及し始めたインターネットを使って、天文台の人が各地の太陽の状況を実況してくれた。

3年前の皆既日食(2009年7月22日だっけ?)は、雨のため観られなかった。
天文が好きな友人は、夏休みを取って皆既日食を見に行った。天気に恵まれなかったが、彼は奄美から雲に隠れつつも、黒くなった太陽が見えた、と話していた。

いつかは私も皆既日食を観たいと思うが、日本ではしばらく観測できないようだ。
日食ツアーに参加しても当日曇りだったら目も当てられない。
砂漠のように、確実に晴れる地域で皆既日食が起こるのだったら、海外であろうと行ってみたいと思う。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

雨先案内人のライブ

1日に当直から帰ると、mixiで、
「今日いわきでライブを行います」
というY君からのメッセージが届いてた。
正月に会ったとき「今度いわきでライブをやるよ」と話していたのは聞いていたのだが、いつ行うか、ということは聞いていなかった。

彼は小中学校で私の同級生だった。学校が同じだったのは9年間だが、クラスが一緒だったのは5、6年の2年間だけだったと思う。小柄でクリクリとした子だった。雨先案内人というグループ名かつ芸名で活動している。2年ほど前の同級会であったら、スラリと背が伸び、髪は長くウェーブをかけていて、非常に驚いた。

20時半頃ライブハウス「SONIC」に到着した。別のユニットが歌唱と小さなピアノの演奏を披露していた。後で聞くと、「猫舌」という仙台から一緒に来たグループらしい。ライブハウスは幅8m、長さ15m、高さ5mくらいの建物で、部屋の前後に舞台があった。中には30人くらいの男女がいた。

Y君のライブは45分くらいから始まった。。色々な楽器をしているそうだが、今日はギターを弾きながら歌うというスタイルだった。歌う、というよりも叫ぶ、といったスタイルで、音程が合っていなかったり、高音が良く出ていない、ということはあったけれど、大声で叫んで、自分の思いを伝えている、ということがヒシヒシと伝わってきた。また、ライブを観に行くこと自体初めてなのだが、左右両方からズシンズシンと来る音は迫力十分だった。
歌っているテーマは、今を一生懸命生きよう、というオトナが聞いたらヘヘンと鼻で笑ってしまうような青臭いテーマではある。しかし、その真っ直ぐな目標を真っ直ぐに歌うというのは凄いことだと思った。

ライブ終了後二人で部屋の外に出て近況を語り合う。Y君はライブとしていわきにも何度が来ているらしい。4日に共通の同級生の結婚式がある。私はそれに出られないので、代わりに宜しく伝えるように言った。その後打ち上げにも参加させて貰った。漠然と、バンドというのは、派手な格好をしていたり、近所の高校でもバイト、バイクと並んで禁止されている(3バ禁止と言われていた)ということから、怖い人達なのかと思ったが、とても気さくな人達だった。

Y君はこれから車で仙台に戻るという。また仙台で会おうね、と言って別れた。

樹海④ 3月22日 田子の浦ゆ

朝起きて、宿で用意された朝食を食べながら、窓越しに富士山を眺める。朝食と言っても、おにぎり2つとサラダ程度のものだが。この日の富士山も、雲一つ無く澄み切っていた。職員から
「ずっと地元に住んでいると、富士山の素晴らしさを特に感じないけれど、他所の人にとってはやっぱり素晴らしいみたいですね。ある中年女性は、5回静岡を訪ねて、5回目にしてようやく富士山を見ることが出来たときは、その場にしゃがみこんだんですよ。」
と言われた。確かに、それだけの山だと思った。

その後、前日に夕闇の中尋ねた白糸の滝・音止の滝を再度訪ねた。手前にある駐車場は500円、奥にある駐車場は300円、隣の店で富士宮焼きそばを買えば、駐車場代は返却、というものだった。そこの主人が面白い人で、駐車場の名前は「あとのまつり駐車場」、500円の有料駐車場から、より滝の近くにある300円の駐車場へ到る道は、騙された観光客が苦笑いをするから「苦笑い坂」と命名したのだそうである。ただ、後日Webで検索してみると、滝から少し離れた場所には無料駐車場もあったらしい。まぁ、500円の駐車料金を支払ってしまった人も、私も、世の中には知らない方が幸せなことも多くある。

音止の滝は、源平の戦いの時に戦略を密談する源氏の武将が「滝の音がうるさくて密談が出来ない」と滝の音がやむように祈った所、滝の音が止み、無事に戦術を決め、戦に勝つことが出来た、という故事に由来する。そんな伝説も納得できそうな瀑音であった。
白糸の滝は、幾筋もの糸状の滝が注がれていた。滝が霧状に砕け、朝日の光で虹が出来ていた。もし昨日、明るいうちに滝に来ていたら、この虹も見られなかったと思ったら、昨日明るいうちに滝に辿り着けなかったのは逆に運が良かったのかもしれない。

再び富士宮市街に戻り、「富士山本宮浅間大社」を見た。日本の神社もそれなりの装飾が施されているが、中国の極彩色の寺とは異なり、朱色の鳥居も大分落ち着いた色になっている。神社の隣には「湧玉池」という富士山からの湧き水でできた、小さいけれど小さな池があった。

その後「田子の浦」に向かった。
小学校時代、百人一首大会のために百人一首を憶えた。
「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」
は百人一首の中でも早期に作られた歌であり、今でもソラで言える。(なお、こちらは平安時代に改編されたもの。改悪との評もあるが、音の流れとしては原作より詠いやすい)現代の私も富士山の美しさに感動したのだから、1300年前の人間も感動したのだろうな、と思う。カーナビの示した史跡に行ったら、工業団地の中に小さな石碑が建っていた。残念ながら、田子の浦にうち出でてみた頃には、富士には雲がかぶり、全貌は見られなくなっていた。

その後は延々と高速で帰宅。敢えて少し遠回りして、ETC専用出入り口の「富士川SA」から高速に入ったが、いきなり渋滞に巻き込まれウンザリした。しかし、渋滞となったのはその近辺だけで、それ以外は足柄SAくらいまでは比較的順調に走ることが出来た。しかし、東京に近づくにつれて、交通量も増えていき、しかも2箇所くらいで交通事故が起こったため数kmの渋滞に巻き込まれた。2日前の首都高速での渋滞に比べれば何ということは無いが、片側3車線もあって渋滞になる交通量には恐れ入った。また、渋滞で車が動かないと眠気に襲われるが、居眠り運転で交通事故でも起こした日には、この渋滞の中助けを呼ばなければならないのかと思うとゾッとした。
首都高速でもまたもや渋滞。電光掲示板を見たら、渋谷から都心まで高速で30分、下道で40分かかるのだそうだ。高速の意義って何?と思ってしまった。多分行きと同じ道を通ったと思うのだが、行きは夜だったため、同じなのかどうかすらよく分からない。首都高速は、渋滞すると20km/hくらいで走らなければならないのに、いざ車が途切れると、どの車も100km/hくらいで走り出す。ギャンブルみたいな道路だ。アクアラインを通るプランは、時間が足りず諦めた。

結局途中のPAで30分くらい寝ていたこともあって、いわきに着いたのは19時過ぎになってしまった。

走行距離:
3月20日 280km
3月21日 120km
3月22日 410km

渋滞には参ったけれど、ウォークマンを車内で流して、眠くなったら曲に合わせて歌っていたら、それほど苦もなく運転できた。多分私は、車の運転が好きなのだろう。

Marlboro

勤務先の先輩がMarlboroの煙草を吸っていたので
「マルボーローですね」

と言ったら、
「マールボロだ。なんで『玉子ボーロ』みたいな発音なんだよ。」

と笑われた。

25年間生きてきて、初めて知ったMarlboroの発音。
ちなみに、「マルボーロー」は佐賀のお菓子らしい。
誰か佐賀に行ったら、マールボロはいらないので、マルボーロー、買ってきて下さい。

小児科

今日から小児科が始まった。

小児科は人手不足と聞いていたけれど、やはり担当教官も相当忙しそうだった。もっとも病院の医者なんてみんな忙しそうだけど。

担当教官は、過去の臨床修練で化粧が派手だという理由で単位が習得できなかった学生を例に挙げて、学生はもっと真面目に修練に参加すべきだと諭した。
いわゆる「医療に相応しい服装」という言葉は「高校生に相応しい服装」並に曖昧で強制力を発揮する言葉だと私は考えている。ジーパンが駄目、ゴム長靴は駄目、髭も駄目、等と言って、実際そんな格好の医者も山ほどいる。そして、
「患者さんに不快感を与えていないか。」
というもっとも大切なことを勝手に自分の枠に当てはめている気がするのだ。

学生の服装が医療に相応しくないのならば、そのことを直接その学生に指摘すれば良い。学生なんて馬鹿だから、言われるまで自分の服装が(その教官の考える)医療に相応しい格好かどうか分からない。寧ろ、格好が医療に相応しくないというだけで、その学生を1年間留年させてしまう方がどうかと思ってしまうのだが。もっとも、その学生が言われても直さなかったのなら、留年も已むを得なかったのかもしれないが。

佐沼

「3月末日をもって閉店」と掲示されていたそうで、
蒼氏と一緒に鯛焼きを食べようと思ったら31日に既に閉店していました。

登米

開始?

ブログをYaplogで1年ほど書き続けていたが、 Yaplogは1回に2000文字(日本語の場合)しか書けないので不便に感じていた。 そこで、字数制限が特に書かれていない、ここFC2でもアカウントを作ってみたのだが、実はまだ勝手がよく分からない。
確かに、機能は沢山ついているようなのだけど、どれを使えば良いのやら。

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砧音月

著者・管理人:砧音月
東北の病院に就業中
2008年卒業

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