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震災1年後

東日本大震災から1年経った。
追悼式典は中継を自宅で見ていた。自然に涙がこみ上げてきた。なんで涙が出るのだろう、と考えてみる。きっと震災、津波で亡くなった方への追悼、被災者の互いを助ける絆への賛辞、全世界からの支援への感謝の念、そして震災に対して無力であった自分への悔恨が絡まっているのだろう。

震災1週間後に無事を報告してから以降、ブログでも報告していなかったので、先日久し振りに会った高校の同級生から、
「何しているか分からんが、取り敢えず埼玉で無事だったみたい。」
と言われてしまった。

震災から1年経ったことでもあるし、自分の震災経験を少しばかり報告したいと思う。もしかしたら、誤解に基づく、誤った情報が含まれているかもしれないが、悪しからず。

○3月11日

震災のあった2011年3月11日、私は福島県いわき市にいた。地震発生時、私は確定申告をしており、確定申告の会場にいた。最初緊急地震速報が届いて、揺れ出すと同時に緊急地震速報のアラームが鳴りだしたので、
「地震速報が来ていますね」
と笑いながら係員と話しているうちに、揺れは大きくなっていった。机に置かれていたノートパソコンまでもが落ちる事態となったので、机の下に潜ることにした。揺れはまるで巨人に建物をユッサユッサと揺らされている感覚だった。しかし、会場は停電や断水になることもなく、確定申告の残りを進め、勤務先の病院に戻った。

病院に戻ると、病棟の患者さん達を全員1、2階に下ろしていた。築40年近く経つ当院は、震度5以上の地震が来たら崩壊するのでは、などと言われていた。エレベーターが使用できない中、患者さん達をストレッチャーや毛布に載せて下まで送る作業を手伝う。

移動が一段落してから、私は救命センターの手伝いをした。そのときになって初めてテレビを観て、仙台が津波に襲われた、ということを知った。三陸ならまだしも、仙台が津波に襲われた、というニュースが俄に信じられなかった。また、救急隊が津波の溺水者を運んでくるのだが、その人数は思ったよりも少なかった。救急隊の話によると、小名浜や江名(いわき市内の地域)は壊滅状態だ、とのことだったのだが、そのときの私には、それがどういう事なのかよく分からなかった。

○3月12日

小児科というのは、入院している患者というのは、風邪や胃腸炎をこじらせて数日間の入院をする子供が大半のため、状態が改善して帰宅できる子供はすぐに退院させることになった。震災当日と翌日には大半の患児が退院した。病院自体は貯蔵水があるので断水になることはなかった。しかし、病院の検査には大量の水が必要らしく、院内の検査は必要最小限にすること、トイレの水は流さないこと、被災した市民が病院のトイレを使い水を浪費させないことが指示された。

○3月13日

津波に遭った町役場と2日間連絡が取れない、とか、仙台市の荒浜では300人以上の溺死体が打ち上げられた、などテレビの報道は酷いことしか言わない。しかし、病院自体は不気味な静けさを保っていた。過去の地震と異なり津波では治療する前に死んでしまう人が多いこと、治療が必要であっても病院搬送までの移動手段が無いことが考えられた。
病院は不気味な静けさを保っており、唯一の情報源がテレビだった。

携帯電話は震災後5日間ほどまともに使えなかった。しかし、インターネットは13日には使用できるようになった。携帯メールをパソコンに転送していたので、それを確認する。何人かから安否を尋ねるメールが来て、その配慮を有り難いと思った。

○3月14日

14日から平日になったが、小児科の外来は実に閑散としたものだった。14日になって水道が復旧した。病院のある地域は他にも病院が林立しており、漏水覚悟で水道管に水を流してくれているのだそうだ。水道局の配慮を有り難いと思った。またこの日の4時には、いわき市の環境放射能測定値が23.72μSv/hまで上昇していた。値はすぐに下がったが、テレビではその話題で持ちきりだった。
総合医局の向かいの部屋が災害対策本部となっており、そこに福島県各地域の放射線量が貼られていた。

なお、後日確認してみたのだが、この情報は県庁・市役所の公式ページのデータでは削除されており、公表されているのは放射線量が下がった16日以降のデータのみだった。行政に不信感を抱く一方で、こんな微量の放射線でパニックになるのが、現在の日本人の知的レベルなのだから、パニックを制御するために情報を統制するのも仕方ない、などと思ってしまう。

同時期に仙台の知人から、いわゆるチェーンメールが届いた。
>自衛隊に勤めているお客さまから地震についての情報が入ったので文章を送ります。
> 各地の石油、製鉄所の火災、福島原発事故の影響で今後降る雨には人体に危険な化学薬品、放射能が含まれる可能性があるので、レインコート、傘は必ず使用して雨が体にあたらないよう徹底してください。なるべく沢山の知り合いに教えてあげて下さい。


私としては、雨具を着るとか、埃を払う外部被曝の予防というのは、あくまでも「おまじない」程度の認識しか持っていなかった。誰かが言っていたけれど、煙草の煙、自動車の排気ガスの方がよっぽど有害だ。だけど、例えば「朝鮮人が暴動を起こす」という流言で朝鮮人の虐殺が起こった関東大震災に比べ、普段の身のこなしを少し変えるだけのチェーンメールなら、まだかわいいかもしれない。
他人に被害を与えない程度の「おまじない」で少しでも気が晴れるのだったら、どうぞおやりなさい、という立場である。

それよりも私が心配したのは内部被曝だった。もしこれから雨が降ったら、雨水に放射性物質が紛れることになる。もしその雨水を使用した水道水を使用したら、今度は体の内部から確実に蝕まれていく。このときの私の心境は、ドラゴンボールに出てくるベジータの「これからが本当の地獄だ」という言葉だった。しかし、地獄であることを知っているため、それを安易に他人に伝えたら、新たなパニックを起こすと考え、親しい人に話すだけに留めておいた。
14日の時点で既に内部被曝を恐れいていたのは我ながら先見の明があると思う。しかし当時の私は、放射性物質は雨で一時的に増えるけれど、そのまま海に流されると考えていた。農作物にまで放射性物質が入り込むことまでは想像が働かなかった。

○3月15日

朝の時点で、病院は通常通り外来診療を行うことになっていた。ところが、昼の時点で薬局の薬剤の量が足りないことが分かった。昨日までは、半月分の在庫はあります、と言っていたのに、どういうことか分からない。また、薬剤師自身が避難していて、薬を処方されない、などという話を聞いた。いずれにしても、私の行動範囲――病院と研修医アパートの往復――では分からない。

後で徐々に知った話によると、市内の薬の卸問屋が、倉庫の鍵を閉めたまま避難してしまったのだという。そして担当者に連絡しても不在とのこと。
いわき市内最大のチェーン薬局である「マルト薬局」の薬をかき集めても足りない状態という。院内にはプレドニンが80錠しか残っておらず、抗てんかん薬も底をついているという。
「こういった、社会的責任を果たさない連中には、後で処罰を与えないと駄目だな」
という声が上がっていたが、本当にそうだと思う。
その後、部長先生は薬局長とも相談していたのだが、疲れ切った表情で
「薬剤師ってのは医者と異なる論理で動いているんだよ。」
と話していた。

15日の夜も当直だったのだが、当直に行くと
「あれ?先生まだ病院に残っていたんですか?」
と言われる。他の若い医者は避難しているという。1次2次救急(歩いてくる患者)も閉鎖して、救急車で来院する3次救急のみを受け入れよう、という話になったらしい。いや、待て聞いていないぞ。

「本日は事前に電話連絡をして来た患者には、薬が無く、検査も出来ない、ということを伝えている。」
と言われた。当直なのに、患者が来ない、儲けた、と思って自宅に戻る。外は霧雨となっていた。
「これから降る雨は放射性物質を含むため、触らないように気をつけなければならない」
などと言っていたチェーンメールは大袈裟だと笑っていたが、いざ自分が雨に濡れる立場になると、出来るだけ濡れたくない、と思ってしまう。

○16日

9時頃に部長先生が災害時緊急会議から戻って会議の話をする。
医薬品に関しては相変わらず厳しい状況。それに加えて電算課の人間まで逃げてしまったため、もし病院の電子カルテシステムがダウンしてしまったら2度と復旧しないという。職員の自主避難は病院が止めることはできないし、止めるべきではない、という結論になったということ。残る職員についても、40歳以下は本人の希望があれば病院に残っても構わない、ということになった。医師の場合、患者の緊急搬送に添乗させ、そのまま搬送先に避難させることになった。
残った医師の名簿があり、現在院内にいる医師にはピンク色のマーカーが引かれていた。初期研修医、後期研修医は、私以外全員既に退避していた。私が周りを見ずに病院に残っている間にいつしか潮は引いていたのだ。研修医の中で最後まで残っていたのが自分だった、ということにどこか安心した。

この日、私もヘリコプターで埼玉に搬送する患者搬送に付き添う形で埼玉に行き、そこで避難した。
上から自分が3年間生きてきたいわきの風景を目に焼き付けておく。意外にいわきは森の多い所だったんだな、と今までは下から眺めていた木々をみつめる。ヘリは旋回して一旦小名浜を回る。アクアマリンも1階部分は津波でひしゃげてしまった、という話を聞いたのでアクアマリンに目を凝らしてみたのだが、遠目でよく分からなかった。壊滅状態、と言われていたが、下の様子は特に変わらなかった。ただ道を走る自動車の数が少ないくらいか。しかし、北茨城の辺りではだいぶ内陸の方にボートが打ち上げられているのを見て、やはり津波は強かったのだと実感する。つくばに着いた頃から、前方には夕陽の沈むビル群が見えてきた。ビル群を通過し間もなくヘリは埼玉県の川越に到着した。

○17日以降

搬送先の病院にとって、必要なのは患者だけであり、付き添いの医師が来ることは予想外だった。しかし事情を話すと、快く研修医アパートの一室を貸してくれ、状況が落ち着くまでは見学生という形で病院に残っても構わない、と言って貰えた。そこで、1週間ほど川越に滞在させて頂くことになる。

また幸運なことに、大学の同級生であるラフマニノフ氏の実家が近くにあり、精神的、物質的にも大分助けて貰った。

その後、病院から連絡があった。スタッフも戻ってきているので、私も戻ってきてはどうか、とのこと。そこで26日に高速バスで東京からいわきに戻った。高速バス出発40分前に到着したときには既に長蛇の列。リュックサックなどを背負った人が多く、一旦東京などに避難した人達がいわきに戻りだしたと考えられた。高速バス3台に人と荷物が満載になったが、どうにか全員乗ることが出来た。また混乱がないようにという配慮か、運転手の他に添乗員もついた。それで料金は普段と変わらない3350円。公共交通を担うバス会社の意地と誇りを感じた気がした。道は途中で何度かガタンガタンと大きく揺れたものの、おおむね順調だった。

震災と無関係に、もともと私は4月から仙台の大学病院に行く予定だった。
ところが、病院に挨拶に行くと、4月もいわきに残ってくれないか、と言われた。5月から赴任する予定だった2人の医師が、やはりいわきの放射能風評を気にして、赴任を嫌がっているのだという。私としては残る気持ちも強かったのだが、いわきに戻ってから急に言われても、既に引越の算段などは決めており、大学にも4月から研修を始める、と伝えていたので、返答に困った。兄と両親に尋ねてみると、やはり、現状としていわきは放射能が心配であるので戻ってきて欲しい。もちろん、私は成人しているので、最終的には私の意思が尊重されるが、ということだった。今回の地震のことでは両親にだいぶ心配を掛けたので、これ以上親不孝をさせるわけにも行かないと思い、仙台に戻ることにした。

○4月以降

4月以降は仙台の大学病院で働いている。

3月25日、引越予定日の2日前になって業者から一方的なキャンセルを告げられた。従業員がいわきに行きたくない、と言ったためである。そのため、自分の車に家財を積めるだけ積んで引っ越しすることになった。
今年度大学に来た多くの研修医が、震災の混乱のため異動を5月に遅らせたことを知ったのは後日である。私は被災地のど真ん中にいながら、4月に引っ越した。また、大学病院も震災の影響で1ヶ月間は昼食の確保にも事欠く状況だった。
仙台は水道・電気の復旧は進んでいたが、ガスの復旧は遅れていた。仙台の新居はオール電化なので入浴は大丈夫だろう、と思っていた。しかし電気は大丈夫なものの温水タンクが破損しており、新居で風呂に入れたのは6月になってからだった。

後になって考えてみると、1ヶ月長くいわきにとどまっても良かったと思う。それをしなかったことを未だに悔いている。
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樹海③ 3月21日 富士山麓

朝に宿を出掛けようとすると、車のフロントガラスにゴミがつき、道路は濡れ、外に置いていた物も、風で飛ばされていた。確かに昨晩も大分風が強かったが、更に雨も降り出して、ちょっとした嵐のようになっていたようだ。

昨日、宿で「猿橋」という橋のパンフレットを見掛けた。「日本三大奇橋」と呼ばれ、岩国の錦帯橋と並び、名所と言われているらしい。私はその存在を全く知らなかった。しかし、旅程の途中にもあることから、寄ってみることにした。行ってみると、猿橋自体も橋の下に瓦葺きとなった不思議な橋だったが、橋のある場所も渓谷となっていて、良い景色だった。渓谷の少し上流になると、普通の河原になっていてそのコントラストが面白かった。

その後「山梨県リニア見学センター」に行った。入ると、最初に入場者の出身地の記入を求められた。リニアモーターカーに対する国民の関心の高さでも調べる気なのだろうか。残念ながら本日はリニアモーターカーの試運転は行っていない。というよりも、去年の10月から、実験線を延長するために試運転を中止しているのだという。今度いつ試運転を行うかは良く分からない、詳しくはJR東海のサイトを見てくれ、とのことだった。実際にリニアモーターカーを建設・運用するのはJR東海であり、この施設は山梨県の施設であり、あくまで山梨のためにリニアをPRし、早期開業を目指す場所なのだ。とはいえ、PR館の職員ですら、試運転の時期を良く分からず、JR東海のサイトを確認してくれ、というのはJR東海と山梨県との連絡すらろくに取られていないのではないか、と心配してしまう。
中学校の同級生に鉄道好きがおり、「リニアモーターカーは東京と名古屋、大阪を結ぶことがメインとなってしまい、地域を線で結ぶという鉄道の特性が活かされない」と言っていた。しかし、東京-大阪の輸送力は点と点を結ぶだけでも年間2400万人が移動する、世界でも類を見ない区間なので、仮に点と点を結ぶ物であっても、十分にペイしてしまうのだ。
私が見学センターに着いたときは数人の親子連れが来ていた程度だったが、次第に高齢者の団体のような人達も来て、かなり賑わっていた。また、サブレなど、お土産もここで購入した。
辺りは白い靄が立ちこめていた。そのせいで、本当は見られるはずの富士山も、どこにあるのかすら分からない。私はてっきり霧に包まれているのかと思ったら、靄の原因は黄砂だという。確かに、霧にしてはうっすらと黄色がかっている。霧などで富士山が見えなくなることはそれなりにあるけれど、黄砂で見えなくなることは珍しい、と言われた。

その後富士吉田に行く。「ふじやまビール」製造工場で、山梨名物の「ほうとう」を食べ、地ビールを購入する。1本2Lくらいの大きな缶麦酒だった。昼くらいになると黄砂も晴れて、富士山の全貌を見ることが出来た。私は今まで富士山を見るのは、東海道本線に乗って窓から眺める程度だった。改めて眺めてみると、本当に見事な左右対称の擂り鉢型をしており、美しかった。世界一高いエベレストは、ヒマラヤ山脈の一員のはずである。富士山が素晴らしいのは、日本一の高さであることに加え、単独峰で、富士山だけが美しく聳え立っている事だと思う。

その後、浅間大社に立ち寄る。ここから富士山への登山道もあるそうな。
それからは、「富士五湖」と呼ばれる湖のうち、河口湖、西湖の周りを走った。河口湖の周りはホテルや土産物屋が林立しており、上高地や湯布院を連想させた。走りながらも、富士山の眺めが見事で、何度か車を停めて富士山をじっくりと見た。

その後、「西湖蝙蝠穴」に行き、そこで「青木ヶ原ネイチャーガイド」を申し込んだ。500円で1時間の樹海の案内をして貰える。樹海の木の案内、洞窟から冷風が吹き出て、洞窟の前には雪が残ること、樹海の岩は磁気を帯びた玄武岩であるため、磁石にくっつくことなど教えて貰い、興味深かった。車を運転しているときは日差しもあり大分暖かかったのだが、樹海の中は大分寒かった。ツアーが終わるとき、丁度山梨県警の車が来た。自殺者を出さないために巡回に来ているのだという。やはり樹海では年間数十人が自殺しているという。自殺する人は決まって、歩道から数十メートルしか奥に進んでいない所で頸を吊るのだという。自殺しても早く誰かに見つけて欲しい、という気持ちがあるためらしい。それならば何も樹海で自殺しなくても良いのに、と思ってしまった。

西湖蝙蝠穴には、富士山の成り立ちも説明書きされていた。富士山の麓には「剗の海」(せのうみ)という湖が広がっていたが、富士山の噴火により溶岩が流れ、せの海が西湖、精進湖などに分かれたのだという。その時代は西暦800年頃。古文書に富士山噴火により湖が分かれた様子が書かれているのだという。書物に記録が残るような時代に富士山が噴火していたというのは不思議な気持ちだ。

その後、鳴沢氷穴、富岳風穴に潜る。昔はそこに雪を貯蔵し、夏になると貴族や天皇などに氷を届けていたのだという。昭和30年頃まで、この洞窟は種や蚕の冷所保存のために使われていた。今は観光客の増加と、氷をわざわざライトアップするため、氷がどんどんと溶けてしまい、外部から氷を入れているのだという。この辺り、「富士山は人手が入りすぎて、自然遺産として登録できない」と言われる所以なのかもしれないと思った。
鳴沢氷穴付近には、オウム真理教事件で一躍有名になった上九一色村がある。現在は市町村合併で存在しないが、私のカーナビはデータが古く、現住所が上九一色村と表示されていた。(なお、上九一色村が合併で消えたのは2006年。)昨日はカーナビのデータが古いために無駄に都心を走って渋滞に巻き込まれたが、今日はデータが古いお蔭で15年前に話題になった場所を偲ぶことが出来た。

2つの洞窟を出ると、既に17時になっていた。本栖湖にも寄り、旧5000円札に描かれた富士山のモデルとなった景色を見た。流石に水面に富士が映る、ということは無かったが、雲一つ無い富士山の姿をここでも見られたのは幸せだった。丁度日が暮れる所で、富士が次第に暗くなっていく姿を、他20人くらいの見物人と一緒に眺めた。

その後は富士宮の宿まで向かう。途中「白糸の滝」にも寄ったが、暗くて展望がきかなかった。明日はいわきに戻るだけなので、朝観に行こう、と思った。

宿泊した「富嶽温泉 花の湯」は、健康ランドにビジネスホテルが隣接したような施設だった。
宿泊施設の中にある食堂でやきそばと御殿場ビールを頼む。富士宮焼きそばは、「ご当地B級グルメ」発祥の食べ物とも知られている。横手もやきそばで町おこしを図ったとして有名だが、富士宮焼きそばも、焼きそばに鰹節を振りかける、独特な食べ方をするらしい。感想としては、鰹節がきいていて、そこそこ旨かった。また御殿場麦酒も、「ピルス」という無難なタイプを選んだためか、特に目立った特徴は感じなかったが、普通に旨く、ゆっくり味わいながら飲んだ。

樹海② 3月20日 首都低速

8時半まで当直を行う。休前日の当直の宿命とは言え、2時間くらいしか寝られない。
14時に仮眠から目覚め、ブラックコーヒーを飲み、出発する。
14:10に自宅を出て、16時には、三郷IC近くのSAに到着した。あまりに順調な走りに
(これだと早く着きすぎてしまうから、首都高速では少し渋滞しているくらいが良いな。)
と思ってしまった。実際はその後とんでもない渋滞に巻き込まれて、少しくらいの渋滞なら……などと望んでしまった自分を叱りたくなる。

三郷ICに入る前から、渋滞となり、ブレーキを踏むことが多くなった。料金所が8列くらいあるが、どれも並んでいる。最初は料金支払いのために混雑しているのかと思ったのだが、実は、殆どの車はETCを装着しており、料金所がボトルネックになっているわけではなかった。料金所が8列あるにも関わらずその先が2か3車線くらいしか無いため、車の流れが滞っているのである。

18時の時点で、定刻の19時に宿に着くのは不可能と判断し、宿に連絡した。渋滞に巻き込まれて到着が遅れる旨を話すと、今どこにいるのか尋ねられた。東京とだけ応えると
「まだまだ掛かりますね。」
と言われた。

そのときは1時間くらいしか遅れないだろう、高をくくっていた。そもそも、事前にいわきから大月までは300kmほどで、高速道路のサイトで所要時間を調べても、それほど大きな渋滞は記載されていなかったのだ。首都高速は、昔言われていた通り、ICの出口が左側だけでなく右側になる場合もある。また首都高速自体が平面でクロスする、という場面もあった。小菅JCTと堀切JCTは、僅か700mの間に、東北道と常磐道が合流し、東京行きと千葉行きに分岐する。東北道から千葉へ行く車と、常磐道から東京へ向かう車は、この700mで交差しなければならない。渋滞で車が入り乱れていることもあるが、危ないことこの上ない。病院の先輩が以前首都高速を走ったとき、同じ道を何度も通ってしまった、と言う話を噂で聞いたことがある。確かにカーナビがなかったら、矢鱈と見知らぬIC、JCTばかりで、一体どこを行けば良いのか分からなくなってしまうだろう。もっとも、暫く走ってから気付いたのだけど、私は本来は田端とかの、都心の北側を通る予定だったのだが、知らないうちに両国、銀座、皇居と言った都心ど真ん中を通ることになっていた。多分、これが20kmほどの渋滞に巻き込まれた一因だろう。この日首都高速はどの路線も多少の渋滞はあったのだが、銀座付近の渋滞の方がより著しかったのではないかと思う。本来通る予定の道を通らなかったのは、カーナビがその道を示さなかったからである。その理由は、カーナビには池袋-新宿の路線がまだ開通していなかったのである。現在未だに、環状高速道路は完成していない。池袋-新宿ラインが出来て多少のバイパスが出来たとはいえ、未だに京葉道路、常磐道、東北道、上越道、中央道、東海道を繋ぐ道が、皇居ラインしかない、ということもある。何だかんだ言っても東京の高速道路は未だに貧弱である。バイパスがないために不要の自動車が都心に走り込んでいる

多分、両国から皇居の脇を通って、信濃町を経由し、新宿に到るまで2時間以上掛かったと思う。中央線を使えば30分で着いてしまうことを考えると、なるほど東京では「車はステータス」と言われる程、実用としては電車に劣っていることに納得する。今まで首都高速というのは、外からノロノロと走る様子を眺めるだけだったが、今は自分がそのノロノロに混ざっている。多分、外から見たら車のライトでさぞや綺麗な夜景になっていることだろう。膨大なガソリンと運転手の精神的余裕を浪費する高価なイルミネーションである。
高速道路というのは誰も住んでいないような田舎を通るもの、というイメージだったので、ビルの谷間を高速で走るのは不思議である。また、ビルの看板が矢鱈と目立つ。首都高速を走っている人を対象にした看板だった。看板なんてものは、駅のホームなどじっと立ち止まるようなところに置かれるのが普通だ。しかも、車を運転している人間は運転に熱中しているから看板を見る余裕なんて無い筈だ。それが、高速を運転している人相手の広告看板が成立するだなんて、首都高速はどれだけ普段から渋滞しているのだろう、と思ってしまった。
また、走っていると、後ろから救急車が来て道を譲った。いわきのように、救命センターが周囲50kmに存在しない所ならまだしも、東京でも救急車が高速を使わなければいけないだなんて、一体どこからどこに行くつもりなのだろうかと不思議に感じた。

八王子を過ぎた当たりから、車も空いてきた。また、先程までは道路の両脇に街灯が照っていた。どこかで見た風景だと思ったら、子供の頃に読んだ「おしいれのぼうけん」にそんな風景があった気がする。周りに建物もないのに、道だけが通り、その両脇に街灯が等間隔に並んでいる絵だ。いつの間にか街灯が消え、暗い中を走ることになる。八王子を過ぎると、間もなく目的の上野原ICに到着した。

その後、カーナビにも載っていないような細道を進み、21時45分頃、宿に到着した。予約していた夕食を食べる。鮎の塩焼き、山菜など、料理はかなり豪華だった。

大二

以前に、ほんの僅かな人に伝えたけれど、ようやく大型二種免許を取得致しました。
大型二種免許というのは、簡単に言ってしまえば「バスの運転免許」です。

そもそも、私が大学時代に所属していた鉄道研究会には車好きの先輩が多く、るーちぇ先輩は大型一種免許(トラックの運転免許)、こまち先輩は普通二種AT限定(タクシーの運転免許)を在学中に取得しています。(なお、2人とも現在、運転免許とは全然関係ない職業に就いていらっしゃいます)そんなことから私も普通車以外の運転免許に漠然と憧れていました。

月10回の当日直というハードスケジュールで疲れ果て、10月に比較的時間に余裕のある精神科での研修が始まったとき、折角時間があるのならば新しいことに挑戦しようと思いました。そんなとき、通りの自動車学校の看板に
「普通免許から大型二種の免許を取得できます。」
と書かれていて、これだ、と思いました。運の良いことに、その自動車学校は1ヶ月半の精神科研修を行った精神病院から300mという非常に近所に位置していたのです。
本当に大型二種にするのか、(大型一種や普通二種にしないのか)多少迷いましたが、何よりバスを運転してみたいこと、大型二種は大型一種と普通二種を内包している――つまり大型二種の免許を取得すれば、バス、トラック、タクシーの全てを運転可能だが、大型一種ではバス、タクシーを運転できないし、普通二種ではバス、トラックを運転できない――ことから大型二種を取ることにしました。

そんな訳で10月から教習の開始。医者をやっていると、救急救命の学科を受けなくて良いので少し学科の料金が安くなり、医師免許を取っていて良かったと思いました。ただ、何かと
「何で医者やっているのに、免許を取るの?」
「医者で自動二輪の免許を取る人は見たことがあるけれど、大型二種の免許を取るのを見たことはないなぁ」
と散々言われ、答えに窮しました。
ただ、最近はホームヘルパーが普通二種の免許を取得し、介護タクシーを運転することがあるそうです。私も将来、検診車で旅客運輸を行う日が来ないとも限りません。

もともと要領が悪いので みきわめ も何度も不合格を繰り返し、卒業検定も2回落第しました。つくづく自分には運転の才能がないなぁ、と思いつつ、11月半ばに3回目にしてようやく合格しました。
その後免許センターで学科試験と免許の交付があるのですが、免許はいわきから80km離れた郡山でないと交付されず、また誕生日が12月だったこともあり、1ヶ月待ってから郡山に行くことにしました。

新規免許取得者の部屋は20歳前後の若者が多く、自分は少し年寄りの気分でした。

免許証は、今年からICチップが挿入され、やや厚くなっていました。また、大型免許の取得に伴い、中型車の限定が解除されていました。(5年ほど前の道路交通法改訂で、普通車の定義が変わったため)服が去年と全然替わっていないのは偶然です。


before

after


先日免許取得のことを後輩の研修医に話したら
「凄いとは思いますが、全っ然尊敬できません」」
と最大限の賛辞をもらいました。

なお、私が1ヶ月半通った平中央自動車学校は、アットホームな雰囲気で楽しかった、と宣伝しておきます。もっとも、18歳の頃に免許を取ったのに比べ、生徒としての私も多少経験を積んで余裕を持って車を運転できるようになっていたことも要因かもしれません。

研修に関して

「大変だ。」と言われる研修医になったけれど、本当に大変です。


具体的に今週の勤務研修(研修医は労働者ではありませぬ。人でないかもしれませぬ。)時時間帯を表にすると

月 8:30 ~ 22:00
火 6:00 ~ 22:30
水 6:00 ~ 19:00(歓迎会 -25:00)
木 8:00 ~ 25:00
金 8:00 ~ 26:30

ちなみに火曜日の日程
5:00 起床。卵ご飯、味噌汁を食べる
6:00 採血の練習。全然とれない
6:30 朝回診。患者さんは大体起きている
8:00 研修医室でパソコンと戯れる
9:00 DSA(血管造影)
12:00 CTU(ICUみたいなところ)で病状説明を見学させて貰う
13:00 昼食。赤飯のおにぎり2つ
13:20 ERCP(内視鏡的逆行性胆管水管造営検査)
16:30 回診
17:30 外科カンファレンス
18:00 回診
19:30 書類作成
22:30 病棟業務終了

病院にいる時間全てが活動時間でないとはいえ、睡眠と食事以外は病院にいることになります。金曜日など、夜勤の看護婦さんを寝る前に見て、起きてから再び見たような気がします。

遅くなる原因の1つは、仕事の多さ。
私はとある医師のもとで研修しているのですが、その医師は常に15~20人ほどの患者さんを抱えています。そして、9時から5時までは検査や外来があるので、入院患者に関する仕事は基本的に時間外労働のうちになります。私はまだ処方箋の出し方も分からないので、その行動に付き合うことになります。

そして指導医。
丁寧で優しい良い先生なのですが、19時を過ぎると、10秒間のうち3秒間は夢の世界に突入するため、仕事の効率が半分になります。今日は私もキレぎみになりました。

ただ、仮に仕事効率が2倍になったとしても、終了は22時くらいでしょう。第2の原因としては、雑務の多さ。更に言ってしまえば、コピペの多さと情報の乱雑さ。
検査1つ出すにしても、その患者さんの血液データを手書きで書かねばなりません。誰でも(パソコンでも)出来るようなことに労働力が割かれています。
また、情報も非常に雑多に管理されており(素人の私から見て)、点滴、薬、体温、食事、画像が全て異なる場所に保管されています。
あと、他人のカルテが読めません。自分さえ理解できたら良いという人が未だに沢山います。かくいう私も、私以外の人全員が私の文字を読めるかどうかは自信ありませんが。
これがコンピューターで一元的に管理されたら、作業効率はかなり上がると思います。電子カルテの早期導入を切に望みます。

どうか、病院で研修医を見掛けたら、
「ご苦労様」
ではなく
「ご過労様」
と声を掛けて下さい。

とはいえ、この1週間は楽しかったと思います。広島で被爆経験のある患者さんにお会いしたり、末期癌の患者さんの説明に立ち会わせて頂いたりと、非常に充実したものだったと思います。
また、私の指導医は24時頃分かれてから緊急内視鏡やCT読影を行うので私より睡眠時間は短いです。(そのかわり日中寝ている気が…)

でも疲れました。

合格しました

国家試験に合格しました。
証拠(00469番)。
大学入試の頃は、インターネット上での合格発表がようやく始まったのに、時代に流れは早いですね。

他の人は、私より優秀な人を含めて、結構緊張しながら発表を聞いていたそうですが、私は引越の方が忙しく、緊張する余裕がありませんでした。

研修医というのは、国家試験に合格するまでは仮契約みたいなもので、引越などは国家試験の結果が出てからしか行えません。つまり、28日から31日までの間に引っ越ししなさいと言うことです。もうちょっと余裕があっても良いと思うのだけど。

私に関しては、28日に荷物を単身引越パックで運び、30日にいわきに到着する予定です。

卒業式と謝恩会

○卒業式


3月25日に東北大学の卒業式と謝恩会が行われた。卒業式(学位授与式)で私は受領総代を務め、2,300人ほどの学部卒業生を代表して卒業証書(学位記)を受け取ることになっていたし、謝恩会では代表幹事を務め司会を行うことになっていた。まさしく「盆と正月が一緒に来た」状態である。更に言えば引越も控えていているので、「彼岸も来た」ようなものである。

今回私が学位記の受領総代になったのは、私が成績優秀だったからでも優れた業績を挙げたからでもない。5年前に偶然私が医学部の総代になり、各学部で持ち回りだった受領総代が偶然今年は医学部担当になったのである。我ながら相当運が良いと思う。
一方で、私は5年間総代として学校側との連絡・交渉に務めてきた。この5年間に学校関連のメールを数えてみたら全部で受信143件、送信48件であり、謝恩会関連のメールは受信289件送信336件に上った。別に私の苦労を殊更言い立てるつもりはないけれど、我ながらよく頑張ったものである。だから、受領総代になったのは運が良かったけれど、受領総代になり得るだけの学年に対する貢献はしたと自負している。

前日、私は2時間しか寝ていなかった。謝恩会のしおりをプリントするのに手間取り、28時まで起きていたためである。しおりには背景に旧制第二高等学校の蜂の校章、私が入学する頃まで慣例的に使用されていた(学生から学章を作る動きがあったのだが、当時の教授会で否決されたそうである)学章、100周年事業を記念して作成された学章、東北大学病院のシンボルマークを入れ込んだ。そういえば小学校も、高校も入学時と卒業時では校章が異なっていた。不思議な時代に生まれたものである。

朝6:30に起こされ、朝食を食べた後に藤崎の貸衣装屋に行く。鏡を見ると、僅かに目が充血し、顔に赤みがかかっていた。女性の着物は着付けや化粧に時間が掛かる上、人数も多いためため早く行く必要があるが、男性の場合は、着付けの時間も短いし人数も少ないので時間が掛からない。7:40頃に藤崎に着いたものの着付けの人が来る8時まで待たねばならなかった。

8時に着付けを始め、15分で着付けは終わった。その後、家族で写真を撮るために暫く待った。アドリアーナさん予め9時に間に合わない旨を連絡しておく。アドリアーナさんは答辞を述べる歯学部6年生である。大学1年のスペイン語のクラスで「みんなでスペイン語の名前を持とう」となって彼女はアドリアーナになった。なお、私はオクタビオであり、未だにスペイン語が一緒だった人から、その名で呼ばれる。その後タクシーで会場に向かう。まずは会場に入り、出席を申し出る。その後すぐに会場の外に出て同級生たちと会う。同級生の晴れ着(特に女の子の)を見るのは楽しく、9:45の時間が来るまであっと言う間だった。

座りながら、学位記を貰う手順をもう1度頭に思い浮かべる。すると、

階段を上る→左右の来賓に礼→総長に礼→総長の言葉→2歩前進→学位記を受け取る→1歩下がる→礼→下がる

という手順のうち、総長の言葉を受ける前に前進するのか後に前進するのか分からなくなった。アドリアーナさんに尋ねてみると、昨日貰った手順書を開いてくれて、正しい方法を教えて貰った。アドリアーナさんが
「うわー、緊張する。」
と言うので
「僕も。」
と言うと、
「でも、オクタビオは、緊張しているように見えないね。」
と言われた。
私は緊張をあまり表に出すタイプではないが、やはり相当緊張していた。

学位記授与式が始まり、各学部のトップが勢揃いする。医学部長の菅村先生は非常に気さくな先生で、研究熱心な人である。今まで知り合った教授達は、変わった人が多かったけれど、決して悪人ではなかった。そして学問に対して非常に真摯だった。そんな研究一筋の人達がいきなりこんな政治の世界に巻き込まれたら大変だろうな、とボンヤリと思った。……というのは後日の思考かもしれない。このときの私は緊張が極地に達しており、何もしなくても自分の心臓の鼓動が感じられるほどだった。

名前を呼ばれ、「ハイッ」と元気よく応える。なお、後で話を聞いて映像を確認したもので、私の記憶には無いことなのだが、私が返事をしたとき、会場に軽い笑いが起こったらしい。というのも、私の声が高く、それを知っている医学部の同級生たちが思わず失笑したらしい。これでも声を低めに抑えていたのに。
(落ち着け、落ち着け。)
と思いながら、ゆっくりと足を踏み出す。
階段を上り、赤い床布の折り目がついた所で立ち止まる。練習ではそのラインよりももう1歩ほど前方と言われたけれど、既に立ち止まってしまったので、更に進むことが出来ない。諦めて次の動作に移る。まずは左側の来賓への挨拶。主に菅村先生を見ながら行った。このときも、頭の中にあったことは
(落ち着いて、出来るだけゆっくりと振る舞おう。)
ということだった。そして、右側へ礼、総長に礼を行った。
総長が学位記を読み上げている間、笑い声が起こったので何かあったのかと思い視線を軽く上げると、私の学位記が正面のスクリーンにデカデカと写っていた。学位記を受け取るときに、マイクに腕が当たるというアクシデントがあったものの、それ以外は非常にスムーズに、特に極度の緊張の中で行った動作にしては予想以上に良い動きをすることができた。

下る前に、マニュアルには無い会場の学生達、保護者への一礼を考えていた。私が今まで総代を務めてきたのには周囲の学生の協力があったからだし、親たちへも感謝の念を伝えたいと思った。しかし、総長に尻を向けて礼をすることの非礼や、あくまでも学生を代表している自分が学生に礼をするのはおかしい気がした。更に、私がそのようなアドリブを行ったら、何らかの失敗をすることが考えられたので、素直に階段を下りることにした。

次はアドリアーナさんの答辞である。
「大丈夫。落ち着いて。」
と声を掛けて送り出す。
私はアドリアーナさんの写真を撮る約束をしていたので、一生懸命何枚も撮影した。ただ、シャッターの音が出るように設定していたので、それを切らねばと設定画面とにらめっこをしていた。運悪くその場面がスクリーンに映し出されてしまい、会場に笑いが起こる羽目になってしまった。
アドリアーナさんの答辞は、非常に素晴らしいものだった。話し方も落ち着いており、立派だった。
戻ってきて
「とても良い答辞だったよ。」
と褒めると
「話している間、お腹の虫がなっちゃったけれど、マイクに拾われていなかった?」
と心配された。

その後、総長からの挨拶である。普段は白々しく聞いている挨拶が、自分たちに向けて語られている言葉なのかと思うと、大変心に響く挨拶に感じられた。
その後、学生歌の歌唱が行われた。混声合唱部が歌い
「学生の皆さんもお歌い下さい。」
と言われたのだけど、周りの学生で歌っている者はいなかった。私は入学後のオリエンテーションで応援団が歌っているのを聞いたり、鉄研のOB総会で毎年歌っていたので、1番に関してはソラで歌える。2番以降の歌詞は知らないが、正面のスクリーンに歌詞が表示されているので、それを見ながら歌った。そしたら、3番の最後で顔がアップで写ってしまった。

最後は螢の光だった。軽く口ずさみながら今までの学生生活を振り返ってみる。色々と後悔することはあるけれど、それでも学生生活を評価すれば及第点は貰えるのでは無かろうか。そして私は総代として常に学年全体のことを考え、ひたすらに頑張ってきた。そしてそれを理解し応援してくれる同級生もいた。それを思い出していると、感極まって涙がポロリと零れた。

閉会になると、高校時代の同級生である森田君や、鉄研の後輩の伊澤君、文藝部の後輩がやって来て、先程の苦労を労って貰った。漠然と、またいつでも会えるという気持ちになるが、卒業後は皆バラバラの県に散って仕事を持つようになる。いつものように「またね」と言っているのに、その重みは全然違っていた。

会場の外には卒業生達がたまって談話していた。受領総代であることは他の卒業生にも分かるようで、面識が無いのに一緒に記念写真に収まった。私は多くの学生(特に、ここでしか会えない高校時代の同級生や部活の後輩)を探してフラフラと歩いていたら、他の人ともはぐれてしまった。そこで駅までトボトボと歩いていく。途中、佐藤均君に会ったり、見知らぬ小母さんから
「袴、素晴らしい。今日の天気も素晴らしい。」
と飴を貰う。S-PALに家族がいると分かったので、そこで昼食を食べる。

その後、学部ごとの学位授与式だ。てっきり保護者は参加できないと思っていたのに、実際は親たちがいて、慌てて親に連絡を取る。東北大学は、こういった事務連絡が他大学に比べて非常にいい加減である。偶然勝又君にも会い、学位記受領のことを褒めて貰い、大学生協の職員達にも卒業の挨拶に行く。

○謝恩会


そして、謝恩会。
「盆と正月」「正月」である。
15:50頃にバスで江陽グランドホテルに向かったのだけど、渋滞のためホテルに着いたのは16:15頃だった。写真部に取り方を再度説明し、5年生に「適当に見学して」と言い、アンサンブルに「今日は宜しく。詳しい打ち合わせはラフ氏とお願い。」と言っているうちに、他の学生も集まってきた。集合写真撮影直前になっても10人以上が来ていない、という事態が起こった。5階で集合・学生受付を行ったのだけど、集合写真の撮影を2階で行うため、学生を2階に集めていたら、まだ受付を済ませていない学生も2階にとどまってしまったためだった。
(「5階で受け付けをして」と言ったのに、どうして日本語が通用しないのだろう。)
と思いながら、大急ぎで集合写真を撮影する。
集合写真を撮っている間、受付を開けるわけに行かないので、写真部に受付を頼む。

その後急いで5階に戻り、先生達を迎え入れる。
先生が入ってきたにも関わらず、学生達は学生同士で固まっている。私は、前年度担当者が
「謝恩会は先生を接待する場である。」
と書いたことの影響を受けていた。メールでもわざわざ
「回の謝恩会は卒業祝賀会の意味合いもありますが、あくまでも先生方に感謝する場です。学生同士で固まらず、先生方と積極的に会話してください。」
とまで書いたのに。人間は1:1で付き合っているときには誠意を持って対応するけれど、1:100とかになると、途端に白痴化すると痛感した。漠然とした指示では人間は動かないのである。その点、前年度担当者は偉大だった。嫌われることを承知で、「最初の20分間は担当教官とずっと会話すること」を義務づけたのである。

まだ教官が入り続けているため、開始は18時から5分ほど遅らせた。その後は台本通りに進んだ。しかし、教授が挨拶している最中も会場内が私語でザワザワとうるさいのには閉口した。せめて挨拶の最中くらいは舞台に注目しなければ失礼ではないか。途中で
「挨拶や演奏の最中はご歓談のボリュームを少し下げるようお願いします。」
と言ったが効果は無かった。

スタッフは自分も教官に最後の挨拶をしたい気持ちをグッと抑え、各自の仕事をしてくれた。結局の所、最初から最後まで、仕事は少人数に集中することになってしまった。結局リーダーである私が振り分けなかったのが元凶なのである。今になって、他の6年生や、下級生達にも積極的に協力を依頼すれば良かったと悔やまれる。

閉会が近づき、花を渡す段になったが、
「学生は担当教官に花をお渡し下さい。」
(これは学生に対する敬語であり、日本語として間違っている)と言った所、
そのまま散会となってしまった。
慌てて引き留め、ラフ氏に閉会の辞を述べて貰った。最後にこのように混乱が起こったことは、まさしく「自身の不徳と致す所」であった。しかし、そういったことも含め、沢山の粗相も教官達、学生達も笑って過ごしてくれたことは非常に有り難かった。

最後の後始末も残っており、ネームプレートの整理など、委員でない同級生に手伝って貰い、ようやく片付けることが出来た。彼らは他の同級生が二次会に行っているにもかかわらず、仕事を自主的に手伝ってくれて本当に有り難かった。

2次会の後、店の前にいたら、見知らぬ人から名前を呼ばれた。彼らは東北大学の卒業生で、私が袴のままで街をうろついていたので気付いたようだ。何故か同級生ばかりでなく見知らぬ人達からも胴上げをして貰う。

帰宅したのは27時だった。その後、ビデオを見て、それをHDに録画しているうちに寝てしまい、これでは駄目だと思い、袴も脱ぎ捨てたまま上に行って寝た。それを妹が片付けてくれたとのことである。
起きたのは11時。8時間の間、1度も目が覚めずに眠り続けた。よほど今までの緊張が強く、疲労が強かったのだろう。

○余談ながら
今日になってようやく明日が国家試験の発表日だと気付いた。だが、未だにどうやって合否を確認するのか分からない。それに明日は引越の荷物の発送で忙しそうであり、確認する暇が無いかもしれない。私の受験番号は00469なので、もし合否が分かったら連絡して下さい。



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砧音月

著者・管理人:砧音月
東北の病院に就業中
2008年卒業

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