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合格しました

国家試験に合格しました。
証拠(00469番)。
大学入試の頃は、インターネット上での合格発表がようやく始まったのに、時代に流れは早いですね。

他の人は、私より優秀な人を含めて、結構緊張しながら発表を聞いていたそうですが、私は引越の方が忙しく、緊張する余裕がありませんでした。

研修医というのは、国家試験に合格するまでは仮契約みたいなもので、引越などは国家試験の結果が出てからしか行えません。つまり、28日から31日までの間に引っ越ししなさいと言うことです。もうちょっと余裕があっても良いと思うのだけど。

私に関しては、28日に荷物を単身引越パックで運び、30日にいわきに到着する予定です。
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卒業式と謝恩会

○卒業式


3月25日に東北大学の卒業式と謝恩会が行われた。卒業式(学位授与式)で私は受領総代を務め、2,300人ほどの学部卒業生を代表して卒業証書(学位記)を受け取ることになっていたし、謝恩会では代表幹事を務め司会を行うことになっていた。まさしく「盆と正月が一緒に来た」状態である。更に言えば引越も控えていているので、「彼岸も来た」ようなものである。

今回私が学位記の受領総代になったのは、私が成績優秀だったからでも優れた業績を挙げたからでもない。5年前に偶然私が医学部の総代になり、各学部で持ち回りだった受領総代が偶然今年は医学部担当になったのである。我ながら相当運が良いと思う。
一方で、私は5年間総代として学校側との連絡・交渉に務めてきた。この5年間に学校関連のメールを数えてみたら全部で受信143件、送信48件であり、謝恩会関連のメールは受信289件送信336件に上った。別に私の苦労を殊更言い立てるつもりはないけれど、我ながらよく頑張ったものである。だから、受領総代になったのは運が良かったけれど、受領総代になり得るだけの学年に対する貢献はしたと自負している。

前日、私は2時間しか寝ていなかった。謝恩会のしおりをプリントするのに手間取り、28時まで起きていたためである。しおりには背景に旧制第二高等学校の蜂の校章、私が入学する頃まで慣例的に使用されていた(学生から学章を作る動きがあったのだが、当時の教授会で否決されたそうである)学章、100周年事業を記念して作成された学章、東北大学病院のシンボルマークを入れ込んだ。そういえば小学校も、高校も入学時と卒業時では校章が異なっていた。不思議な時代に生まれたものである。

朝6:30に起こされ、朝食を食べた後に藤崎の貸衣装屋に行く。鏡を見ると、僅かに目が充血し、顔に赤みがかかっていた。女性の着物は着付けや化粧に時間が掛かる上、人数も多いためため早く行く必要があるが、男性の場合は、着付けの時間も短いし人数も少ないので時間が掛からない。7:40頃に藤崎に着いたものの着付けの人が来る8時まで待たねばならなかった。

8時に着付けを始め、15分で着付けは終わった。その後、家族で写真を撮るために暫く待った。アドリアーナさん予め9時に間に合わない旨を連絡しておく。アドリアーナさんは答辞を述べる歯学部6年生である。大学1年のスペイン語のクラスで「みんなでスペイン語の名前を持とう」となって彼女はアドリアーナになった。なお、私はオクタビオであり、未だにスペイン語が一緒だった人から、その名で呼ばれる。その後タクシーで会場に向かう。まずは会場に入り、出席を申し出る。その後すぐに会場の外に出て同級生たちと会う。同級生の晴れ着(特に女の子の)を見るのは楽しく、9:45の時間が来るまであっと言う間だった。

座りながら、学位記を貰う手順をもう1度頭に思い浮かべる。すると、

階段を上る→左右の来賓に礼→総長に礼→総長の言葉→2歩前進→学位記を受け取る→1歩下がる→礼→下がる

という手順のうち、総長の言葉を受ける前に前進するのか後に前進するのか分からなくなった。アドリアーナさんに尋ねてみると、昨日貰った手順書を開いてくれて、正しい方法を教えて貰った。アドリアーナさんが
「うわー、緊張する。」
と言うので
「僕も。」
と言うと、
「でも、オクタビオは、緊張しているように見えないね。」
と言われた。
私は緊張をあまり表に出すタイプではないが、やはり相当緊張していた。

学位記授与式が始まり、各学部のトップが勢揃いする。医学部長の菅村先生は非常に気さくな先生で、研究熱心な人である。今まで知り合った教授達は、変わった人が多かったけれど、決して悪人ではなかった。そして学問に対して非常に真摯だった。そんな研究一筋の人達がいきなりこんな政治の世界に巻き込まれたら大変だろうな、とボンヤリと思った。……というのは後日の思考かもしれない。このときの私は緊張が極地に達しており、何もしなくても自分の心臓の鼓動が感じられるほどだった。

名前を呼ばれ、「ハイッ」と元気よく応える。なお、後で話を聞いて映像を確認したもので、私の記憶には無いことなのだが、私が返事をしたとき、会場に軽い笑いが起こったらしい。というのも、私の声が高く、それを知っている医学部の同級生たちが思わず失笑したらしい。これでも声を低めに抑えていたのに。
(落ち着け、落ち着け。)
と思いながら、ゆっくりと足を踏み出す。
階段を上り、赤い床布の折り目がついた所で立ち止まる。練習ではそのラインよりももう1歩ほど前方と言われたけれど、既に立ち止まってしまったので、更に進むことが出来ない。諦めて次の動作に移る。まずは左側の来賓への挨拶。主に菅村先生を見ながら行った。このときも、頭の中にあったことは
(落ち着いて、出来るだけゆっくりと振る舞おう。)
ということだった。そして、右側へ礼、総長に礼を行った。
総長が学位記を読み上げている間、笑い声が起こったので何かあったのかと思い視線を軽く上げると、私の学位記が正面のスクリーンにデカデカと写っていた。学位記を受け取るときに、マイクに腕が当たるというアクシデントがあったものの、それ以外は非常にスムーズに、特に極度の緊張の中で行った動作にしては予想以上に良い動きをすることができた。

下る前に、マニュアルには無い会場の学生達、保護者への一礼を考えていた。私が今まで総代を務めてきたのには周囲の学生の協力があったからだし、親たちへも感謝の念を伝えたいと思った。しかし、総長に尻を向けて礼をすることの非礼や、あくまでも学生を代表している自分が学生に礼をするのはおかしい気がした。更に、私がそのようなアドリブを行ったら、何らかの失敗をすることが考えられたので、素直に階段を下りることにした。

次はアドリアーナさんの答辞である。
「大丈夫。落ち着いて。」
と声を掛けて送り出す。
私はアドリアーナさんの写真を撮る約束をしていたので、一生懸命何枚も撮影した。ただ、シャッターの音が出るように設定していたので、それを切らねばと設定画面とにらめっこをしていた。運悪くその場面がスクリーンに映し出されてしまい、会場に笑いが起こる羽目になってしまった。
アドリアーナさんの答辞は、非常に素晴らしいものだった。話し方も落ち着いており、立派だった。
戻ってきて
「とても良い答辞だったよ。」
と褒めると
「話している間、お腹の虫がなっちゃったけれど、マイクに拾われていなかった?」
と心配された。

その後、総長からの挨拶である。普段は白々しく聞いている挨拶が、自分たちに向けて語られている言葉なのかと思うと、大変心に響く挨拶に感じられた。
その後、学生歌の歌唱が行われた。混声合唱部が歌い
「学生の皆さんもお歌い下さい。」
と言われたのだけど、周りの学生で歌っている者はいなかった。私は入学後のオリエンテーションで応援団が歌っているのを聞いたり、鉄研のOB総会で毎年歌っていたので、1番に関してはソラで歌える。2番以降の歌詞は知らないが、正面のスクリーンに歌詞が表示されているので、それを見ながら歌った。そしたら、3番の最後で顔がアップで写ってしまった。

最後は螢の光だった。軽く口ずさみながら今までの学生生活を振り返ってみる。色々と後悔することはあるけれど、それでも学生生活を評価すれば及第点は貰えるのでは無かろうか。そして私は総代として常に学年全体のことを考え、ひたすらに頑張ってきた。そしてそれを理解し応援してくれる同級生もいた。それを思い出していると、感極まって涙がポロリと零れた。

閉会になると、高校時代の同級生である森田君や、鉄研の後輩の伊澤君、文藝部の後輩がやって来て、先程の苦労を労って貰った。漠然と、またいつでも会えるという気持ちになるが、卒業後は皆バラバラの県に散って仕事を持つようになる。いつものように「またね」と言っているのに、その重みは全然違っていた。

会場の外には卒業生達がたまって談話していた。受領総代であることは他の卒業生にも分かるようで、面識が無いのに一緒に記念写真に収まった。私は多くの学生(特に、ここでしか会えない高校時代の同級生や部活の後輩)を探してフラフラと歩いていたら、他の人ともはぐれてしまった。そこで駅までトボトボと歩いていく。途中、佐藤均君に会ったり、見知らぬ小母さんから
「袴、素晴らしい。今日の天気も素晴らしい。」
と飴を貰う。S-PALに家族がいると分かったので、そこで昼食を食べる。

その後、学部ごとの学位授与式だ。てっきり保護者は参加できないと思っていたのに、実際は親たちがいて、慌てて親に連絡を取る。東北大学は、こういった事務連絡が他大学に比べて非常にいい加減である。偶然勝又君にも会い、学位記受領のことを褒めて貰い、大学生協の職員達にも卒業の挨拶に行く。

○謝恩会


そして、謝恩会。
「盆と正月」「正月」である。
15:50頃にバスで江陽グランドホテルに向かったのだけど、渋滞のためホテルに着いたのは16:15頃だった。写真部に取り方を再度説明し、5年生に「適当に見学して」と言い、アンサンブルに「今日は宜しく。詳しい打ち合わせはラフ氏とお願い。」と言っているうちに、他の学生も集まってきた。集合写真撮影直前になっても10人以上が来ていない、という事態が起こった。5階で集合・学生受付を行ったのだけど、集合写真の撮影を2階で行うため、学生を2階に集めていたら、まだ受付を済ませていない学生も2階にとどまってしまったためだった。
(「5階で受け付けをして」と言ったのに、どうして日本語が通用しないのだろう。)
と思いながら、大急ぎで集合写真を撮影する。
集合写真を撮っている間、受付を開けるわけに行かないので、写真部に受付を頼む。

その後急いで5階に戻り、先生達を迎え入れる。
先生が入ってきたにも関わらず、学生達は学生同士で固まっている。私は、前年度担当者が
「謝恩会は先生を接待する場である。」
と書いたことの影響を受けていた。メールでもわざわざ
「回の謝恩会は卒業祝賀会の意味合いもありますが、あくまでも先生方に感謝する場です。学生同士で固まらず、先生方と積極的に会話してください。」
とまで書いたのに。人間は1:1で付き合っているときには誠意を持って対応するけれど、1:100とかになると、途端に白痴化すると痛感した。漠然とした指示では人間は動かないのである。その点、前年度担当者は偉大だった。嫌われることを承知で、「最初の20分間は担当教官とずっと会話すること」を義務づけたのである。

まだ教官が入り続けているため、開始は18時から5分ほど遅らせた。その後は台本通りに進んだ。しかし、教授が挨拶している最中も会場内が私語でザワザワとうるさいのには閉口した。せめて挨拶の最中くらいは舞台に注目しなければ失礼ではないか。途中で
「挨拶や演奏の最中はご歓談のボリュームを少し下げるようお願いします。」
と言ったが効果は無かった。

スタッフは自分も教官に最後の挨拶をしたい気持ちをグッと抑え、各自の仕事をしてくれた。結局の所、最初から最後まで、仕事は少人数に集中することになってしまった。結局リーダーである私が振り分けなかったのが元凶なのである。今になって、他の6年生や、下級生達にも積極的に協力を依頼すれば良かったと悔やまれる。

閉会が近づき、花を渡す段になったが、
「学生は担当教官に花をお渡し下さい。」
(これは学生に対する敬語であり、日本語として間違っている)と言った所、
そのまま散会となってしまった。
慌てて引き留め、ラフ氏に閉会の辞を述べて貰った。最後にこのように混乱が起こったことは、まさしく「自身の不徳と致す所」であった。しかし、そういったことも含め、沢山の粗相も教官達、学生達も笑って過ごしてくれたことは非常に有り難かった。

最後の後始末も残っており、ネームプレートの整理など、委員でない同級生に手伝って貰い、ようやく片付けることが出来た。彼らは他の同級生が二次会に行っているにもかかわらず、仕事を自主的に手伝ってくれて本当に有り難かった。

2次会の後、店の前にいたら、見知らぬ人から名前を呼ばれた。彼らは東北大学の卒業生で、私が袴のままで街をうろついていたので気付いたようだ。何故か同級生ばかりでなく見知らぬ人達からも胴上げをして貰う。

帰宅したのは27時だった。その後、ビデオを見て、それをHDに録画しているうちに寝てしまい、これでは駄目だと思い、袴も脱ぎ捨てたまま上に行って寝た。それを妹が片付けてくれたとのことである。
起きたのは11時。8時間の間、1度も目が覚めずに眠り続けた。よほど今までの緊張が強く、疲労が強かったのだろう。

○余談ながら
今日になってようやく明日が国家試験の発表日だと気付いた。だが、未だにどうやって合否を確認するのか分からない。それに明日は引越の荷物の発送で忙しそうであり、確認する暇が無いかもしれない。私の受験番号は00469なので、もし合否が分かったら連絡して下さい。



帰国しました

3月13日に独西旅行から帰国しました。
独:独逸(ドイツ)
西:西班牙(スペイン)
ドイツは主に旧西ドイツだったので、西独西旅行でも良いのですが。

○旅行のきっかけ


卒業旅行としてドイツに行くことにしました。
今まで海外旅行は何度か行っていますが、ヨーロッパは初めてです。
小学校の同級生のくまぼぅがドイツに留学しているので、彼女がドイツにいる間にドイツに遊びに行こうと思いました。
また、一人での旅行は寂しいので、大学の同級生のラフ氏を誘った所、彼がドイツの旅行の後、BSL(病棟実習)のメンバーと一緒に旅行することを知り、その旅行にもノコノコついていくことにしました。その旅先は二転三転の末スペインになりました。

○旅行の概要


2月25日に成田出発、フランクフルト、ケルン、ボン、フュッセンなどを回り、3月1日、2日にくまぼぅのいるマンハイムを訪れました。その後、列車でパリを経由しバルセロナへ。初めての列車での国境越えです。その後バルセロナで他の4人と合流して、スペインを12日まで回っていました。

最初は旅行記として書こうと思ったのですが、なにぶん忙しい上に本人が怠け者のため、多分旅行記は書けないでしょう。ということで気付いたことを箇条書き。

  • くまぼぅがドイツで元気に生きていたことに安心
  • 思い出を辿ってみたら、クラスが一緒だったのは小学2年の1年間だけ。よっぽど濃い1年間だったんだね。というか、部屋から追い出してゴメンよぅ。
  • くまぼぅの下、ワイン農場を見せて貰いました。ワインを沢山試飲させて貰い、ワインって美味しいと思う
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  • ドイツは駅の出入り口に喫煙所があるのでたばこ臭い
  • ドイツの町並み・聖堂は本当に綺麗。歴史を感じる街ばかり
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  • フランス人はフランス語を話せないと不機嫌になる。
     釣り銭を投げるように渡したり、7ユーロのお釣りを50セント硬貨14枚で渡したり
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  • 大学1年で学んだスペイン語が意外に通用してビックリ
  • スペイン人は親切。道を間違えると、全然関係ないバスの運転手がクラクションを鳴らして道を教えてくれる。そして陽気。
  • ドイツもスペインも水道水は飲用可能(特にグラナダはネバダ山脈の雪解け水のため美味しい)
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  • アルハンブラ宮殿で全く別行動だった同級生と再会。アルハンブラにクラスメイトの10分の1が集まる。

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○結論


  • ドイツとフランスが戦ったら → ドイツを応援(次はイタリア抜きで)
  • スペインとフランスが戦ったら → スペインを応援
  • ドイツとスペインが戦ったら → フランスを相手に戦います
     参照:日本を相手に戦います
  • 反論:英語だとムスッとしたおじさんが「メルシー」と言うと、ニコーっとしてくれます
  • 総括:私は平和主義者です

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砧音月

著者・管理人:砧音月
東北の病院に就業中
2008年卒業

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