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震災1年後

東日本大震災から1年経った。
追悼式典は中継を自宅で見ていた。自然に涙がこみ上げてきた。なんで涙が出るのだろう、と考えてみる。きっと震災、津波で亡くなった方への追悼、被災者の互いを助ける絆への賛辞、全世界からの支援への感謝の念、そして震災に対して無力であった自分への悔恨が絡まっているのだろう。

震災1週間後に無事を報告してから以降、ブログでも報告していなかったので、先日久し振りに会った高校の同級生から、
「何しているか分からんが、取り敢えず埼玉で無事だったみたい。」
と言われてしまった。

震災から1年経ったことでもあるし、自分の震災経験を少しばかり報告したいと思う。もしかしたら、誤解に基づく、誤った情報が含まれているかもしれないが、悪しからず。

○3月11日

震災のあった2011年3月11日、私は福島県いわき市にいた。地震発生時、私は確定申告をしており、確定申告の会場にいた。最初緊急地震速報が届いて、揺れ出すと同時に緊急地震速報のアラームが鳴りだしたので、
「地震速報が来ていますね」
と笑いながら係員と話しているうちに、揺れは大きくなっていった。机に置かれていたノートパソコンまでもが落ちる事態となったので、机の下に潜ることにした。揺れはまるで巨人に建物をユッサユッサと揺らされている感覚だった。しかし、会場は停電や断水になることもなく、確定申告の残りを進め、勤務先の病院に戻った。

病院に戻ると、病棟の患者さん達を全員1、2階に下ろしていた。築40年近く経つ当院は、震度5以上の地震が来たら崩壊するのでは、などと言われていた。エレベーターが使用できない中、患者さん達をストレッチャーや毛布に載せて下まで送る作業を手伝う。

移動が一段落してから、私は救命センターの手伝いをした。そのときになって初めてテレビを観て、仙台が津波に襲われた、ということを知った。三陸ならまだしも、仙台が津波に襲われた、というニュースが俄に信じられなかった。また、救急隊が津波の溺水者を運んでくるのだが、その人数は思ったよりも少なかった。救急隊の話によると、小名浜や江名(いわき市内の地域)は壊滅状態だ、とのことだったのだが、そのときの私には、それがどういう事なのかよく分からなかった。

○3月12日

小児科というのは、入院している患者というのは、風邪や胃腸炎をこじらせて数日間の入院をする子供が大半のため、状態が改善して帰宅できる子供はすぐに退院させることになった。震災当日と翌日には大半の患児が退院した。病院自体は貯蔵水があるので断水になることはなかった。しかし、病院の検査には大量の水が必要らしく、院内の検査は必要最小限にすること、トイレの水は流さないこと、被災した市民が病院のトイレを使い水を浪費させないことが指示された。

○3月13日

津波に遭った町役場と2日間連絡が取れない、とか、仙台市の荒浜では300人以上の溺死体が打ち上げられた、などテレビの報道は酷いことしか言わない。しかし、病院自体は不気味な静けさを保っていた。過去の地震と異なり津波では治療する前に死んでしまう人が多いこと、治療が必要であっても病院搬送までの移動手段が無いことが考えられた。
病院は不気味な静けさを保っており、唯一の情報源がテレビだった。

携帯電話は震災後5日間ほどまともに使えなかった。しかし、インターネットは13日には使用できるようになった。携帯メールをパソコンに転送していたので、それを確認する。何人かから安否を尋ねるメールが来て、その配慮を有り難いと思った。

○3月14日

14日から平日になったが、小児科の外来は実に閑散としたものだった。14日になって水道が復旧した。病院のある地域は他にも病院が林立しており、漏水覚悟で水道管に水を流してくれているのだそうだ。水道局の配慮を有り難いと思った。またこの日の4時には、いわき市の環境放射能測定値が23.72μSv/hまで上昇していた。値はすぐに下がったが、テレビではその話題で持ちきりだった。
総合医局の向かいの部屋が災害対策本部となっており、そこに福島県各地域の放射線量が貼られていた。

なお、後日確認してみたのだが、この情報は県庁・市役所の公式ページのデータでは削除されており、公表されているのは放射線量が下がった16日以降のデータのみだった。行政に不信感を抱く一方で、こんな微量の放射線でパニックになるのが、現在の日本人の知的レベルなのだから、パニックを制御するために情報を統制するのも仕方ない、などと思ってしまう。

同時期に仙台の知人から、いわゆるチェーンメールが届いた。
>自衛隊に勤めているお客さまから地震についての情報が入ったので文章を送ります。
> 各地の石油、製鉄所の火災、福島原発事故の影響で今後降る雨には人体に危険な化学薬品、放射能が含まれる可能性があるので、レインコート、傘は必ず使用して雨が体にあたらないよう徹底してください。なるべく沢山の知り合いに教えてあげて下さい。


私としては、雨具を着るとか、埃を払う外部被曝の予防というのは、あくまでも「おまじない」程度の認識しか持っていなかった。誰かが言っていたけれど、煙草の煙、自動車の排気ガスの方がよっぽど有害だ。だけど、例えば「朝鮮人が暴動を起こす」という流言で朝鮮人の虐殺が起こった関東大震災に比べ、普段の身のこなしを少し変えるだけのチェーンメールなら、まだかわいいかもしれない。
他人に被害を与えない程度の「おまじない」で少しでも気が晴れるのだったら、どうぞおやりなさい、という立場である。

それよりも私が心配したのは内部被曝だった。もしこれから雨が降ったら、雨水に放射性物質が紛れることになる。もしその雨水を使用した水道水を使用したら、今度は体の内部から確実に蝕まれていく。このときの私の心境は、ドラゴンボールに出てくるベジータの「これからが本当の地獄だ」という言葉だった。しかし、地獄であることを知っているため、それを安易に他人に伝えたら、新たなパニックを起こすと考え、親しい人に話すだけに留めておいた。
14日の時点で既に内部被曝を恐れいていたのは我ながら先見の明があると思う。しかし当時の私は、放射性物質は雨で一時的に増えるけれど、そのまま海に流されると考えていた。農作物にまで放射性物質が入り込むことまでは想像が働かなかった。

○3月15日

朝の時点で、病院は通常通り外来診療を行うことになっていた。ところが、昼の時点で薬局の薬剤の量が足りないことが分かった。昨日までは、半月分の在庫はあります、と言っていたのに、どういうことか分からない。また、薬剤師自身が避難していて、薬を処方されない、などという話を聞いた。いずれにしても、私の行動範囲――病院と研修医アパートの往復――では分からない。

後で徐々に知った話によると、市内の薬の卸問屋が、倉庫の鍵を閉めたまま避難してしまったのだという。そして担当者に連絡しても不在とのこと。
いわき市内最大のチェーン薬局である「マルト薬局」の薬をかき集めても足りない状態という。院内にはプレドニンが80錠しか残っておらず、抗てんかん薬も底をついているという。
「こういった、社会的責任を果たさない連中には、後で処罰を与えないと駄目だな」
という声が上がっていたが、本当にそうだと思う。
その後、部長先生は薬局長とも相談していたのだが、疲れ切った表情で
「薬剤師ってのは医者と異なる論理で動いているんだよ。」
と話していた。

15日の夜も当直だったのだが、当直に行くと
「あれ?先生まだ病院に残っていたんですか?」
と言われる。他の若い医者は避難しているという。1次2次救急(歩いてくる患者)も閉鎖して、救急車で来院する3次救急のみを受け入れよう、という話になったらしい。いや、待て聞いていないぞ。

「本日は事前に電話連絡をして来た患者には、薬が無く、検査も出来ない、ということを伝えている。」
と言われた。当直なのに、患者が来ない、儲けた、と思って自宅に戻る。外は霧雨となっていた。
「これから降る雨は放射性物質を含むため、触らないように気をつけなければならない」
などと言っていたチェーンメールは大袈裟だと笑っていたが、いざ自分が雨に濡れる立場になると、出来るだけ濡れたくない、と思ってしまう。

○16日

9時頃に部長先生が災害時緊急会議から戻って会議の話をする。
医薬品に関しては相変わらず厳しい状況。それに加えて電算課の人間まで逃げてしまったため、もし病院の電子カルテシステムがダウンしてしまったら2度と復旧しないという。職員の自主避難は病院が止めることはできないし、止めるべきではない、という結論になったということ。残る職員についても、40歳以下は本人の希望があれば病院に残っても構わない、ということになった。医師の場合、患者の緊急搬送に添乗させ、そのまま搬送先に避難させることになった。
残った医師の名簿があり、現在院内にいる医師にはピンク色のマーカーが引かれていた。初期研修医、後期研修医は、私以外全員既に退避していた。私が周りを見ずに病院に残っている間にいつしか潮は引いていたのだ。研修医の中で最後まで残っていたのが自分だった、ということにどこか安心した。

この日、私もヘリコプターで埼玉に搬送する患者搬送に付き添う形で埼玉に行き、そこで避難した。
上から自分が3年間生きてきたいわきの風景を目に焼き付けておく。意外にいわきは森の多い所だったんだな、と今までは下から眺めていた木々をみつめる。ヘリは旋回して一旦小名浜を回る。アクアマリンも1階部分は津波でひしゃげてしまった、という話を聞いたのでアクアマリンに目を凝らしてみたのだが、遠目でよく分からなかった。壊滅状態、と言われていたが、下の様子は特に変わらなかった。ただ道を走る自動車の数が少ないくらいか。しかし、北茨城の辺りではだいぶ内陸の方にボートが打ち上げられているのを見て、やはり津波は強かったのだと実感する。つくばに着いた頃から、前方には夕陽の沈むビル群が見えてきた。ビル群を通過し間もなくヘリは埼玉県の川越に到着した。

○17日以降

搬送先の病院にとって、必要なのは患者だけであり、付き添いの医師が来ることは予想外だった。しかし事情を話すと、快く研修医アパートの一室を貸してくれ、状況が落ち着くまでは見学生という形で病院に残っても構わない、と言って貰えた。そこで、1週間ほど川越に滞在させて頂くことになる。

また幸運なことに、大学の同級生であるラフマニノフ氏の実家が近くにあり、精神的、物質的にも大分助けて貰った。

その後、病院から連絡があった。スタッフも戻ってきているので、私も戻ってきてはどうか、とのこと。そこで26日に高速バスで東京からいわきに戻った。高速バス出発40分前に到着したときには既に長蛇の列。リュックサックなどを背負った人が多く、一旦東京などに避難した人達がいわきに戻りだしたと考えられた。高速バス3台に人と荷物が満載になったが、どうにか全員乗ることが出来た。また混乱がないようにという配慮か、運転手の他に添乗員もついた。それで料金は普段と変わらない3350円。公共交通を担うバス会社の意地と誇りを感じた気がした。道は途中で何度かガタンガタンと大きく揺れたものの、おおむね順調だった。

震災と無関係に、もともと私は4月から仙台の大学病院に行く予定だった。
ところが、病院に挨拶に行くと、4月もいわきに残ってくれないか、と言われた。5月から赴任する予定だった2人の医師が、やはりいわきの放射能風評を気にして、赴任を嫌がっているのだという。私としては残る気持ちも強かったのだが、いわきに戻ってから急に言われても、既に引越の算段などは決めており、大学にも4月から研修を始める、と伝えていたので、返答に困った。兄と両親に尋ねてみると、やはり、現状としていわきは放射能が心配であるので戻ってきて欲しい。もちろん、私は成人しているので、最終的には私の意思が尊重されるが、ということだった。今回の地震のことでは両親にだいぶ心配を掛けたので、これ以上親不孝をさせるわけにも行かないと思い、仙台に戻ることにした。

○4月以降

4月以降は仙台の大学病院で働いている。

3月25日、引越予定日の2日前になって業者から一方的なキャンセルを告げられた。従業員がいわきに行きたくない、と言ったためである。そのため、自分の車に家財を積めるだけ積んで引っ越しすることになった。
今年度大学に来た多くの研修医が、震災の混乱のため異動を5月に遅らせたことを知ったのは後日である。私は被災地のど真ん中にいながら、4月に引っ越した。また、大学病院も震災の影響で1ヶ月間は昼食の確保にも事欠く状況だった。
仙台は水道・電気の復旧は進んでいたが、ガスの復旧は遅れていた。仙台の新居はオール電化なので入浴は大丈夫だろう、と思っていた。しかし電気は大丈夫なものの温水タンクが破損しており、新居で風呂に入れたのは6月になってからだった。

後になって考えてみると、1ヶ月長くいわきにとどまっても良かったと思う。それをしなかったことを未だに悔いている。
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砧音月

著者・管理人:砧音月
東北の病院に就業中
2008年卒業

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