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「それでもボクはやっていない」を観て

木曜日にマルジョウ氏達と一緒にそれでもボクはやっていないを観てきた。白い巨塔を医療従事者が見れば首を捻るのと同様、法律の知識のある者がこの映画を観たら実態とは違うと思うかもしれないけれど、取り敢えずこの映画が実際に起こってもおかしくないという前提で話を進める。あと私は痴漢を行った事も無いし、痴漢に遭った事も無いので加害者・被害者の気持ちに共感できるかどうかは分からないが、とにかく話を進めることにする。

あらすじ

映画は、通勤電車の中で痴漢に間違えられた男性が、裁判を受ける様子を克明に追っている。 主人公はスーツを扉に挟んでしまい、それを取ろうと不審な挙動を行う。下車後に女子中学生に袖を捕まれ、痴漢だと言われ、駅員室、警察署、という流れになる。そこで怒鳴りつける刑事、「裁判で争っても利益は無い。」と言う当番弁護士、「間違って触ったことにすれば良いんだよ。」と囁く刑事などが登場する。

小人の忠実さが悲劇を生む

その様子を見て、
(誰も悪人がいないのに悲劇が生まれるのだな。)
と感じた。女子中学生は勇気を持って痴漢を告発した被害者だし、彼女の肩を持ち駅員室に主人公を連れて行ったサラリーマンも善意の人である。主人公を警察に渡した駅員だって職務を忠実に果たしただけである。

映画の中では刑事や裁判官が一見悪者に見える。しかし怒鳴りつける刑事も、彼の正義;真実を調書として書き上げることに忠実に従っただけ、検察も真実を明らかにするために一生懸命なだけなのだ。しかし、根本にあるただ一つの過ち、つまり 「主人公が痴漢を犯した」 という勘違いのために主人公は窮地に追い込まれていく。

そして、目的とは往々にしていつの間にかすり替わっていく。刑事の仕事は、彼の信じる真実を作文することとなり、検察は彼を有罪にすることが目的となって行く。どんな専門知識を持つ人間も、所詮はつまらない小さな人間であり、自分達で証拠を集めて起訴した案件を否定されてプライドを傷つけられたら不快に思うし、自分に不利なことを自ら進んで実行する訳には行かないのだ。
誰かが主人公を陥れようと考えているわけでもない。各々が、各々の職務を貫き、人間性の小ささをカバーできなかった結果、悲劇が生まれるのだった。別に警察が悪人ではない、ということが最もよく表れたのが、主人公が保釈される時に警察官が満面の笑みで
「今までよく頑張ったな。警察の内部でも、まさか起訴になると思っていた人はいなかったんだ。」

と話し掛ける場面だった。

また穿った見方をすれば、痴漢事件の根本には 「殺人的な通勤ラッシュの改善を怠った鉄道会社」 にも遠因があるはずだ。ここ20年間で少子高齢化が一層進んだから、通勤者の数は多分あまり増えていない。もしかしたら減っているかもしれない。にも関わらず、殺人的な混雑を改善する努力の足りない鉄道会社は、痴漢並びに痴漢冤罪を幇助しているのではないか、とすら思えてしまう。勿論、鉄道会社は投資に見合うだけの利益が無いから、混雑の改善を現状に留めているのだろうけれど。そして、当然ながら鉄道員は何の悪意も抱いていない。

映画の結論に関して、不満に思う人も多かったと思う。私はあれでも良かったと思うのだが、どうせならば、主人公に有罪判決を下し、最後に裁判官が
「自分の犯した罪を真摯に反省し、立派な社会人になって下さい。」
と微笑む方が、今の司法制度のおぞましさを際立たせることが出来たと思う。

十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ

さて、映画の冒頭に
「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」
という格言が出てくるのだが、果たしてこの格言は正しいのか?
多分、法律家にとっては正しいのだろうけれど、裁判ではなく世間一般の考え方は「疑わしきは罰せず」どころか 「人を見たら泥棒と思え」、「李下に冠を正さず」 である。上の文章を借りるならば
「十人の無辜を罰するとも一人の真犯人を逃すともなかれ」
である。買い物客は確証が無くても宮崎県産の鷄肉を避けるし、私は裁判の結果が出る10年も前からオウム事件の首謀者たちは死刑に処されるべきだと信じていた。また法的なプロセスを重視するあまり逮捕された犯人を処罰できない、という本も存在する。(参照:復讐法廷)

裁判所では世間の非常識を教えているのか?
あくまで個人の解釈であるが、寧ろ世間が冤罪が起こることよりもよりも真犯人取り逃がしてしまうことを重視しているからこそ、裁判所は真犯人取り逃がしよりも冤罪を重視しなければならないと考える。両方で綱引きをすることでより良い状態を作るしかない。

冤罪に関係のありそうなもの

これらの事件が冤罪か本当に真犯人なのか素人の私には区別できないけれど、ちょっと気になった話題を。

最後に裁判劇を見て不思議に思ったこと

裁判の主役が検察と弁護人であること。
被告人も被害者も、その中ではあくまで証人でしかなく、検察と弁護人の駒であったこと。
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分業社会と人間の弱さ

それでも どろり氏への返答

1つ目はに私達は社会の中で分業しているのだから、裁判の中で被害者や加害者が置いて行かれた感じがしても、それが高度に発達した社会の証拠なのだ、ということですね。その上で、私達は生きる上で(例えば今回だったら痴漢冤罪に陥りそうな場面で)必要最低限の知識を持つ必要があるということですね。

そして2つ目は尋問を受ける被疑者の弱さについてですね。私も大学1年の時に「冤罪はこうして作られる」という授業を受けたのですが、冤罪が簡単に作り上げられて行く現在の取調べ制度、そしてそれを簡単に認めてしまう裁判制度に驚いたものです。

私も冤罪を防ぐためには教育や啓発(まさしく今回の映画のように)が必要だと思います。学校では綺麗事(歴史年表とか、三権分立とか)だけではなく、実際に身に降りかかりかねない脅威についても教えて欲しいものです。

また現在、取調べの録画を求める動きが起こっていて、今月から試験的に取り調べの録画を始めるそうです。
(参照:
取調べ可視化 最前線: 検察庁での取調べ録画・録音、全国で試行へ
http://blog.kashika-suishin.com/archives/2007/01/post_106.html)
教育と制度の両面から冤罪の無くなるような司法制度にして欲しいものです。
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砧音月

著者・管理人:砧音月
東北の病院に就業中
2008年卒業

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