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学部紹介

先日、二高(私の出身校)から封筒が送られ、「学部・学科紹介執筆のお願い」が送られてきた。しばらく大学の白い紙に慣れていたので、高校でずっと使っていた石巻更のくすんだ白さに高校時代を懐かしく思った。
まだ詳しく読んでいないのだが、二高生に大学を紹介する文章を書き、また時間に余裕があったら説明会も行って欲しいとのことだった。普段
「共学になった時点で、二高は自分の母校ではない」
とか思っていたし、4年から5年に進級するときにあまりに沢山の同級生が留年したため
「これからは大学の悪口を言いまくってやる。」
などと息巻いていたけれど、いざ大学紹介をしてくれ、と頼まれると、そのような意地悪をする気も失せて、できるだけ客観的に、現役の高校生に役立つ情報を提供したいな、と思うのであった。

泌尿器科の勉強をしながら、フワフワと
「現役二高生にどんなことを説明しようか。」
と思っていた。何かメッセージを伝えるとすれば、と思い、今のうちに草案を書いてみることにする。

高校の勉強について
例えば「高校の勉強の大切さ」。医学部の勉強で、高校時代に習っていた学習が役に立つのは、化学、生物、英語くらいなものだ。(ちなみに私は高校生物を習っておらず、大学で苦労した)数学だって、一応統計処理が必要な場合があるけれど、統計は高校数学では殆ど扱わない。実際の所、算数レベルの計算が出来れば医学部の勉強にはあまり困らない。また国語は、日本語の下手な某教授の執筆を理解するためには必要だった気はするけれど、古典だの社会だのは、別に学ばなくても困る訳ではない。では、何のために不必要な勉強をするのか。

物凄く割り切って答えてしまえば「大学に入るため」という理由になってしまう。例えば家柄や財産、くじ引きで大学に入れる世界では困る。大学の学問に直接関係するわけではないけれど、とりあえず、誰もが(しぶしぶであっても)認められるという選抜方法が、受験勉強なのだ、と思いたい。

ただ、それだとあまりに悲し過ぎるので、高校の勉強を行うことそのものの意義についてもう少し考えてみたい。その意義について「勉強の方法を身に付けるため」という答えはどうだろうか。大学で学ぶことは膨大である。
――どのくらい膨大か、という喩えを考えてみた。実際は覚えることの種類が違うので、高校の勉強に喩えることは出来ないのだが、「1ヶ月に世界史の教科書を1冊終えるくらい」とでも言えば、高校生たちにも分かって貰えるだろうか。(多分、範囲の広さはそのくらい広いけれど、試験に出るのは基本的なことなので、センター試験のように大変ということは無いと思う。)――
しかも大学の教育は非常にいい加減である。いい加減、というよりも大学は研究する場なので、教育はその片手間に行われている気がする。そしてあまりにも教えることが多過ぎて授業ではほんの一部しか教えることが出来ない。そうなると高校のうちに、教科書の読み方、覚え方、なんかを自分なりに確立することが必要なのではなかろうか。

また、大学以降の勉強や研究なんて、他人には理解して貰えない。例えばノーベル賞を取った人の業績を新聞で読んで「ふーん。」と思っても、実は大して理解できていない。「頭が良いか、教養があるか」というのは皆が進学する高校までの知識をどれだけ自分のものにしたか、ということが評価されるような気がする。私は精神科の患者さんと話した時に
「氷川きよしは馬鹿だ。田原坂の戦いも知らない。」
と言われて冷や汗をかいた経験がある。私自身、田原坂の戦いを名前程度でしか知っていなかったからだ。一応、医者は「頭が良い」とされている(多分)ので、高校までの勉強なら自信を持って答えられる、くらいならば恥ずかしくないのではなかろうか。

友人の大切さについて
そして、同級生の大切さ。医学部は特に医者になりたい者しか集まってこない。高校のように様々な目標を持った人間が集まっているときの同級生と友情を深めておくことが後々大切になると思う。
実際に二高に通っていた頃、私は自身がそれほど楽しい高校生活を送っているとは思っていなかった。確かに楽しいけれど、他のオトナ達が言うほど、輝いているもの、という気はしなかった。しかし、卒業から時間が経つごとに高校時代の記憶が輝いてくるようになった。その気持ちは、高校を離れなければ分からないのだろうけれど、少しでも伝えられたら、と思う。

高校の勉強をしっかりマスターしておくということと、同級生と沢山話しておくことの両方に言えるのが、「会話の引き出しを沢山作っておく」ということ。沢山本を読んで、ゲームもして、色々なことに興味を持っておくことが、後々患者さんと話すときも女の子と話すときも役立つのではないか、と思う。

さて私がそんなアドバイスを出来るほど、立派な高校、大学時代を送ったかというと、送っていた訳が無く、だから今の高校生たちにはそんな高望みをしたい、と思うのだ。あ、あと高校時代の友人の大切さは自明の理のため、長々と受験勉強の意義を書いてしまった。反省。



早池峰山

少しは日記っぽいことも書きましょうか。

今日、マルジョウ氏と山さんと一緒に早池峰山に登ってきました。
早池峰山というのは岩手県のほぼ中央にある山で高山植物で有名です。

仙台を朝の4時に出発して、花巻まで高速道路を使い、そこから一般道へ。高速を使っても4時間掛かり、遠い所だと思いました。
早池峰2

高山植物の花のピークは6、7月ですが、まだ少しは咲いていました。早池峰1

学生のうちにもう1回くらい山に登っておきたいという気持ちと、卒試前ということで萎縮してしまう心とで行くのは大分迷いましたが、行って良かったと思います。

今週の金曜日は

今週の金曜ロードショーは「天空の城 ラピュタ」です。
ジブリ作品の中でもラピュタはかなり頻繁に放送されていると思っていたのですが、宮崎駿&スタジオジブリ作品テレビ放映リスト・視聴率付きによると、どの番組もかなり頻繁に放送されているんですね。

映画やアニメを見る機会は少ないですが、好きな作品を挙げろと言われたらまずはラピュタを挙げます。
ラピュタの魅力を挙げるとしたら「教訓とコメディーがバランス良く配分されている」という点が挙げられると思います。「もののけ姫」は環境保護に関して非常に教訓的であったけれど、私はあまり楽しめませんでした。ラピュタは次々と展開されるアクションの間合いが非常に素晴らしいと思います。

また、魅力溢れる登場人物も物語を盛り上げます。史実的にはラピュタ王の末裔を自称するムスカがラピュタ王に再臨しようとし、それを同じく自称ラピュタ王の末裔であるシータ一味によって妨害されるという話ですが、ムスカの人柄、台詞は人々を魅了して止みません。

ムスカ大佐は眼科のキャンペーンにも起用されるし
(参照:「ラピュタ」のムスカ 眼科のキャンペーンに起用 京同通信社)

語録は、毛沢東語録と並んで、人々の日常を支えているし
(参照:萌やし系-日常会話で使う天空の城ラピュタ)

色々な作品にパロディとして使用されるし
(参照:ムスカのセリフを使用した作品(ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ - Wikipedia))

放映から21年経って、その人気は衰える所を知りません。
というか、このWikipedia、以前よりも増えている……。

そもそも、私はジブリは好きなものの、ラピュタが特別に好きという訳ではありませんでした。
高校の文藝部雑誌「フロントライン」で長谷川乱調氏の書いた「ラピュタの謎」を見て、触発され、それ以来ラピュタ、とりわけムスカの虜になっています。誠に高校時代の学友とはその後の人格形成に多大な影響を及ぼすものです。

今迄、ラピュタやムスカが好きな人は少ないと思っていたのですが、意外に多いことが判明。
かつて所属していたサークルにもラピュタが好きな人がおり、みんなで部室でラピュタのDVDを観た記憶があります。
また妹の通っていた女子校では、運動会の仮想大会でジブリの登場人物の仮装をしたそうなのですが、一番の人気は飛行石だったんだそうです。
飛行石
うら若き乙女がこんながに股で仮装行列に参加していたらしい


妹のクラスは、同級生が休んだとき、2つ先の人に 「海に捨ててー。」 と言いながら手を伸ばしてプリントを渡したと言うので、その某女子高生たちのラピュタの好き具合は私を越えているのかもしれません。

MEC模試

昨日、国家試験に向けた模擬試験を受けました。
医学生は2月に行われる国家試験に向けて過去問を解いたり、模擬試験を受けたり、6年ぶりに「受験生」になります。

昼間学校に行って問題を取りに行って、自宅で解くというものでした。受験票を受け取ってびっくり。
MEC


そういえば国試対策委員から
「住所教えて。」
と言われたとき、
「どうせ企業に情報が流れるのだったら、旧字体を使ってやれ。」
と思って、旧字体で住所を渡した記憶が。
でも、それがそのまま使われるとは思わなかった。
こんな宛先で今後郵便物が届られるかと思うとちょっと鬱です。
でも郵便屋さんはもっと嫌でしょうね。
昔だったらどろり氏に送る年賀状のように

一 → 壱
二 → 弐
三 → 参
四 → 肆
五 → 伍
六 → 陸
七 → 漆
八 → 捌
九 → 玖

と「るろうに剣心」みたいなことをやっていただろうけれど、そうすると本当に届かなくなりそうです。

同級生のみんなもそろそろ国家試験に向けて勉強し始めているようです。自分としても気持ちばかりが焦って一方で「何とかなるだろう。」という甘えた心もあって、前に進んでおりません。

二高消失

大分遅れた話題ですが、私の母校だった仙台二高の入学式が月曜日に行われたそうです。二高は今迄男子校だったのですが、今年度から共学化され、70名の女学生が入学したそうです。

私が高校時代、二高は男子校というだけあって、更衣室など無く、パンツ一丁で生徒が廊下を濶歩していました。また中庭に正座させられ同級生からアレやコレや尋ねられたり、応援歌零番に大笑いしたのも、本当に懐かしい思い出です。

組織は時代や中の人によって常に移ろうものです。共学化以前からも應援團幹部が1人もいなくなってしまったり、定期戦が1日だけになってしまったり、時代の変化を感じる話を耳にしてきました。
また女子校と異なり(福島女子→橘、安積女子→安積黎明など)、男子校が共学化になっても名前自体は変わりません。だから学校はそのまま続いているような錯覚に陥ります。
でも、私にとって、二高は消えてしまい、記憶の中を永遠に漂流する存在になってしまったのです。

本当はアカい千と千尋の神隠し

注意

この文章はエイプリルフールに合わせた冗談企画です
別に社会主義を賛美している訳でもないし、批判している訳でもありません。
どうか、責めないで下さい。

千と千尋の社会主義

千尋は資本主義社会の住民。ひょんなことから社会主義の国に迷い込み、そこで千尋の両親は
「金で買えない物は無い。」
とばかりに、党員の大切な物に手をつけてしまう。社会主義圏では金では手に入らない物が存在するのである。千尋の両親は「資本主義の豚」であることを示された後、強制収容所に連行されてしまう。

千尋はその後湯婆婆の元に行き、
「働かせてください。」
と頼む。湯婆婆は当初難色を示していたものの
「働きたい者は必ず雇うと決めてしまったから。」
と千尋を雇うことにする。そう。社会主義国家では「失業者ゼロ」を高らかに掲げているのである。千尋は資本主義社会での名前を捨て、社会主義の中で生きて行くための名前を手に入れる。

釜爺ではススワタリが
「働かないならば煤に戻してしまうぞ。」
と叱られるが、これは国家に貢献しない者は粛清されることの暗示である。

またクサレ神がやって来たときも、油屋全体で、力を合わせる。これは全体主義の象徴である。綱引きによって、出てきた物は川に捨てられた廃棄物。これは経済第一主義の結果発生した公害以外の何物でもない。資本主義社会によって汚されたクサレ神は、社会主義の元で浄化され再び活力を取り戻す。

そんな貧しくも平和に革命活動を続けてきた油屋に、湯婆婆曰く「雨に紛れておかしな物が入り込んできた」。それこそが金で全てを手に入れることができると思い込む、市場経済至上主義の権化、カオナシである。
最初のうち、従業員たちは働きに応じて収入を得られる環境に活き活きとする。しかし、市場経済が人民を呑み込むという事実に直面し、人民は恐怖に陥る。
そしてカオナシの生み出した金塊は、実は土くれだった。これは正しく、ライブドアなどの株式が事件によって紙切れになってしまうことを暗示している。つまり、市場経済とは虚構の財産を生み出し、それによって人民の心を狂わせる物でしかないのだ。市場経済という害悪は千尋によって社会主義国家から取り除かれる。

また、坊は「言うことを聞かないとテポドン打っちゃうぞ」と喚く、朝鮮民主主義人民共和国に酷似している。生活の全てが湯婆婆という大国に頼っており、自活できないところまで隣国に似ている。千尋が血を見せたのは「米国の言うことを聞かないとイラクのように制裁を受けるぞ」ということだったのか。

更に、双子の銭婆は、妹のことを
「私達は双子なのに仲が悪くて。」
とこれは正しく、同じ社会主義国家でありながら仲が険悪であった中華人民共和国とソヴィエト社会主義共和国連邦との関係を暗示している。互いに相手の物を盗んだり、スパイ活動を行う辺り、中ソの関係に似ているではないか。

最後に千尋は資本主義社会へと戻って行くが、社会主義国家で"何か"を見つけ、それを糧として今後も生きて行く姿が映された後、「いつでも何度でも」が静かに流れ出す。

いつでも何度でも


呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る (社会主義の)夢を見たい
かなしみ(革命に散った同志)は 数えきれないけれど
その向こうできっと あなた(社会主義国家建国)に会える

(資本主義の)繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る(→赤い旗の 赤さを知る)
(革命への道のりは)果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光(社会主義)を抱ける

(資本主義に)さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだ(→革命で荒廃した人民)
(主席の言葉に)耳をすませる
(社会主義が)生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ(同志)

(革命が)呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも (社会主義の)夢を描こう
かなしみ(社会主義の貧しさ)の数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっと(インターナショナルを)うたおう

閉じていく思い出の(→米帝によって封じ込められた国々の)
そのなかにいつも
忘れたくない (社会主義の)ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡(→ソヴィエト)の上にも
新しい景色(→CIS:独立国家共同体)が 映される

(革命の)はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ(→革命で荒廃した経済)
充たされてゆけ(5ヵ年計画、大躍進)
海の彼方(ソヴィエト)には もう探さない
輝くもの(社会主義の夢)は いつもここに
わたしのなかに
見つけられたから(→我が国は独自路線を貫きます)

結論

「千と千尋の神隠しのDVDは赤いということで話題に上がったが、
(参照:wikipedia:千と千尋の神隠し:DVDの「赤い映像」問題)
何のことは無い。最初からアカかったのである。

配役の考察

別に漠然とした社会主義の話でも良いのだけど、折角だからそれぞれのキャストの配役を考えてみよう。まず、上に述べたようなことから
湯婆婆ソヴィエト社会主義共和国連邦
銭婆中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国
としてみよう。

一方で千尋を大韓民国ハクを朝鮮民主主義人民共和国とすれば
「私はそなたの小さい頃からよく知っている。」
とか釜爺の
「愛の力だ」「民族愛の力だ」
も世界情勢に合致する。
更に父親を米国母親を日本とすれば、正しく資本主義の豚であり、旦那にばっかり執心で娘に無関心な母親はアジアに無関心な日本を暗示している。ただ、しがみつく千尋に向かって悠子さん(千尋ママ)の台詞
「千尋、離れて歩いて。歩きづらいわ。」
があまりに意味深になってしまうので、これ以上追求しないことにする。
しかしそうなると坊を朝鮮以外の国と見なければならない。キューバ、リビア、イランなんかが頭に浮かぶのだけど、彼ほど瀬戸際外交を行う国が他に見当たらず、判断に悩むところである。

余談ながら

宮崎駿は大学時代社会主義に傾倒していたそうである。
(参照:wikipedia:宮崎駿#政治的・思想的スタンス)
意外にそんな暗喩があるんじゃないの?と思ってしまった。
あと、一応「千と千尋 社会主義」といった言葉で調べてみたけれど、こんな考えをしている人はいなかった。誰でも思いつきそうだけど、やっぱり突飛なのかなぁ。

くまぼぅ同窓会

200703同窓会


顔が分からないくらいのサイズしか出しません。
原寸大の写真を見たい方は
http://photos.yahoo.co.jp/(私の苗字)_(私の名前)
(それぞれ半角英字6字ずつ。アンダーバー含めて13字。)
を入力してください。

小中学校の同級生であるくまぼぅが留学先のドイツから一時帰国したため、それに合わせておととい小中学校の同窓会が開かれました。私はくまぼぅと小中学校8年間一緒だったのですが、中には小学校だけ一緒だった人、中学校だけ一緒だった人もいて、同窓会なのに「初めまして」が飛び交い面白かったです。

1月にもマイマイが同窓会を開いてくれたのですが、23歳の同窓会って本当に面白い。4年生の大学の人でも既に社会人として活躍しているし、みんなが自分の方向に向かって頑張っている姿を見てとても嬉しかったです。あと、当時の内緒話
;当時同級生からどんな風に思われていたかとか、恋愛話とか
色々な話をざっくばらんに聞けて、あぁ、時間が経つって素晴らしいな、と思いました。

くまぼぅとは3次会まで一緒だったのですが、4次会は244君、ごちひ、映君と4人で別のお店に行っていました。ところが、私は当日朝にヴェトナムから成田に帰ったばかりで、その疲れが4次会になって一気に出てきて4次会ではずうっと寝ていました。3人、本当にごめんなさい。

みんな真っ直ぐに大人になったなぁ、って思ったら嬉しくなって、既に朝になって他にも通行人がいるのに、帰りの自転車を漕ぎながらポロポロと涙が流れてきました。同窓会の最中、何人かに抱きついちゃったけれど、本当は全員と抱き合いたいくらい愛おしかった。

また同窓会で会いましょう。

帰仙

10日間くらいに渡る
四国旅行、水上合宿、磐城共立病院見学

から帰りました。

日程の概要は
3月10日 仙台出発
3月11日 高松・琴平観光
3月12日 かずら橋、祖谷渓(いやけい)観光
3月13日 宇和島観光
3月14日 松山観光
3月15日 鳴門観光、室戸岬訪問
3月16日 高知観光
3月17日 水上合宿
3月18日 鹿島鉄道乗車
3月19日 磐城共立病院見学
3月20日 磐城共立病院見学、帰仙
といった感じ。
ルートは下の図のような感じ。
観光と鉄道乗車を両立させる、というか公共交通機関で観光地を回るのはなかなか難しく(それでも北海道に比べれば遥かに便利)、大抵の移動は早朝か夕方以降になっていたような気が。

2007春合宿1

2007春合宿2

白地図 KenMap使用

旅行記はおいおい書くとして、毎旅行恒例の「装備一覧」でもアップしておきます。ほぼ毎回の旅行中書いていたのですが、去年の春はノートを無くしてしまい、夏は書く時間が無かったので、記録に残るのは1年ぶりです。誤字が多くて恥ずかしい。やっぱり、手書きを続けていないと漢字が書けなくなります。

四国旅行、水上合宿、磐城共立病院見学装備一覧


もうちょっと詳しい日程・コメントについて
四国旅行ダイジェスト1
四国旅行ダイジェスト2

くまぼぅからのバトン

小中学校の同級生のくまぼぅからバトンを回してもらいました。 私を色に喩えると

四角く切った紙に厳格に塗られたグレー


(↑あまり色が変わっていない)だそうです。
確かに淡い色が好きですが、今まで自分を色で表現したことが無かったので、なるほど、と思いました。 同級生とは有り難いものです。

★1、ときめく○○な人。3人。
○○=異性
・心の大きな人
・目の上に眉毛が自生している人
・螢の光を最後まで歌える人

★2、嫌いな○○。3つ。
・開くたびにうるさい
・顔が貧相
・ロングシート






○○=701
エイスケ氏、ごめんなさい。でも 東京からの350kmが全部ロングシートだと嫌になります。

★3、お金をかけられるもの。3つ。
・旅行
・サークル活動
・弐千円札(但し等価交換として)

★4、好きなもの。3つ。
・温かい布団で寝ること
・入浴中に寝ること
・暗い講義室で寝ること

★5、今、欲しいもの。3つ。
・進級
・計画性と行動力
・言語能力

★6、バトンを受け取ってくれそうな5人
★7、その5人を色に例えると。

みなさん鉄色ですが
■■■2.1ch氏 仙山線の緑色■■■
■■■めいてつ氏 宮交・名鉄色の赤色■■■
■■■蒼氏 山交の水色■■■
■■■エイスケ氏 秋田の桃色■■■
■■■長セ氏 北高校の水色■■■

★8、近づきたいから。。。
螺旋のようにグルグル回る

★9、嬉しくて。。。
泣く

★10、好きだから。。。
集める

★11、愛しいから。。。
幸せを祈る

★12、かわいくって。。。
なでる

★13、恥ずかしくて。。。
言葉にする

★14、もどかしくて。。。
別のことをする

★15、逢いたいから。。。
風まかせ


本日は市立病院で実習。 家を出発した時は雪だったのに着いたら雨で、山と里の天気の違いを考えさせられました。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

「それでもボクはやっていない」を観て

木曜日にマルジョウ氏達と一緒にそれでもボクはやっていないを観てきた。白い巨塔を医療従事者が見れば首を捻るのと同様、法律の知識のある者がこの映画を観たら実態とは違うと思うかもしれないけれど、取り敢えずこの映画が実際に起こってもおかしくないという前提で話を進める。あと私は痴漢を行った事も無いし、痴漢に遭った事も無いので加害者・被害者の気持ちに共感できるかどうかは分からないが、とにかく話を進めることにする。

あらすじ

映画は、通勤電車の中で痴漢に間違えられた男性が、裁判を受ける様子を克明に追っている。 主人公はスーツを扉に挟んでしまい、それを取ろうと不審な挙動を行う。下車後に女子中学生に袖を捕まれ、痴漢だと言われ、駅員室、警察署、という流れになる。そこで怒鳴りつける刑事、「裁判で争っても利益は無い。」と言う当番弁護士、「間違って触ったことにすれば良いんだよ。」と囁く刑事などが登場する。

小人の忠実さが悲劇を生む

その様子を見て、
(誰も悪人がいないのに悲劇が生まれるのだな。)
と感じた。女子中学生は勇気を持って痴漢を告発した被害者だし、彼女の肩を持ち駅員室に主人公を連れて行ったサラリーマンも善意の人である。主人公を警察に渡した駅員だって職務を忠実に果たしただけである。

映画の中では刑事や裁判官が一見悪者に見える。しかし怒鳴りつける刑事も、彼の正義;真実を調書として書き上げることに忠実に従っただけ、検察も真実を明らかにするために一生懸命なだけなのだ。しかし、根本にあるただ一つの過ち、つまり 「主人公が痴漢を犯した」 という勘違いのために主人公は窮地に追い込まれていく。

そして、目的とは往々にしていつの間にかすり替わっていく。刑事の仕事は、彼の信じる真実を作文することとなり、検察は彼を有罪にすることが目的となって行く。どんな専門知識を持つ人間も、所詮はつまらない小さな人間であり、自分達で証拠を集めて起訴した案件を否定されてプライドを傷つけられたら不快に思うし、自分に不利なことを自ら進んで実行する訳には行かないのだ。
誰かが主人公を陥れようと考えているわけでもない。各々が、各々の職務を貫き、人間性の小ささをカバーできなかった結果、悲劇が生まれるのだった。別に警察が悪人ではない、ということが最もよく表れたのが、主人公が保釈される時に警察官が満面の笑みで
「今までよく頑張ったな。警察の内部でも、まさか起訴になると思っていた人はいなかったんだ。」

と話し掛ける場面だった。

また穿った見方をすれば、痴漢事件の根本には 「殺人的な通勤ラッシュの改善を怠った鉄道会社」 にも遠因があるはずだ。ここ20年間で少子高齢化が一層進んだから、通勤者の数は多分あまり増えていない。もしかしたら減っているかもしれない。にも関わらず、殺人的な混雑を改善する努力の足りない鉄道会社は、痴漢並びに痴漢冤罪を幇助しているのではないか、とすら思えてしまう。勿論、鉄道会社は投資に見合うだけの利益が無いから、混雑の改善を現状に留めているのだろうけれど。そして、当然ながら鉄道員は何の悪意も抱いていない。

映画の結論に関して、不満に思う人も多かったと思う。私はあれでも良かったと思うのだが、どうせならば、主人公に有罪判決を下し、最後に裁判官が
「自分の犯した罪を真摯に反省し、立派な社会人になって下さい。」
と微笑む方が、今の司法制度のおぞましさを際立たせることが出来たと思う。

十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ

さて、映画の冒頭に
「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」
という格言が出てくるのだが、果たしてこの格言は正しいのか?
多分、法律家にとっては正しいのだろうけれど、裁判ではなく世間一般の考え方は「疑わしきは罰せず」どころか 「人を見たら泥棒と思え」、「李下に冠を正さず」 である。上の文章を借りるならば
「十人の無辜を罰するとも一人の真犯人を逃すともなかれ」
である。買い物客は確証が無くても宮崎県産の鷄肉を避けるし、私は裁判の結果が出る10年も前からオウム事件の首謀者たちは死刑に処されるべきだと信じていた。また法的なプロセスを重視するあまり逮捕された犯人を処罰できない、という本も存在する。(参照:復讐法廷)

裁判所では世間の非常識を教えているのか?
あくまで個人の解釈であるが、寧ろ世間が冤罪が起こることよりもよりも真犯人取り逃がしてしまうことを重視しているからこそ、裁判所は真犯人取り逃がしよりも冤罪を重視しなければならないと考える。両方で綱引きをすることでより良い状態を作るしかない。

冤罪に関係のありそうなもの

これらの事件が冤罪か本当に真犯人なのか素人の私には区別できないけれど、ちょっと気になった話題を。

最後に裁判劇を見て不思議に思ったこと

裁判の主役が検察と弁護人であること。
被告人も被害者も、その中ではあくまで証人でしかなく、検察と弁護人の駒であったこと。
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砧音月

著者・管理人:砧音月
東北の病院に就業中
2008年卒業

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