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樹海④ 3月22日 田子の浦ゆ

朝起きて、宿で用意された朝食を食べながら、窓越しに富士山を眺める。朝食と言っても、おにぎり2つとサラダ程度のものだが。この日の富士山も、雲一つ無く澄み切っていた。職員から
「ずっと地元に住んでいると、富士山の素晴らしさを特に感じないけれど、他所の人にとってはやっぱり素晴らしいみたいですね。ある中年女性は、5回静岡を訪ねて、5回目にしてようやく富士山を見ることが出来たときは、その場にしゃがみこんだんですよ。」
と言われた。確かに、それだけの山だと思った。

その後、前日に夕闇の中尋ねた白糸の滝・音止の滝を再度訪ねた。手前にある駐車場は500円、奥にある駐車場は300円、隣の店で富士宮焼きそばを買えば、駐車場代は返却、というものだった。そこの主人が面白い人で、駐車場の名前は「あとのまつり駐車場」、500円の有料駐車場から、より滝の近くにある300円の駐車場へ到る道は、騙された観光客が苦笑いをするから「苦笑い坂」と命名したのだそうである。ただ、後日Webで検索してみると、滝から少し離れた場所には無料駐車場もあったらしい。まぁ、500円の駐車料金を支払ってしまった人も、私も、世の中には知らない方が幸せなことも多くある。

音止の滝は、源平の戦いの時に戦略を密談する源氏の武将が「滝の音がうるさくて密談が出来ない」と滝の音がやむように祈った所、滝の音が止み、無事に戦術を決め、戦に勝つことが出来た、という故事に由来する。そんな伝説も納得できそうな瀑音であった。
白糸の滝は、幾筋もの糸状の滝が注がれていた。滝が霧状に砕け、朝日の光で虹が出来ていた。もし昨日、明るいうちに滝に来ていたら、この虹も見られなかったと思ったら、昨日明るいうちに滝に辿り着けなかったのは逆に運が良かったのかもしれない。

再び富士宮市街に戻り、「富士山本宮浅間大社」を見た。日本の神社もそれなりの装飾が施されているが、中国の極彩色の寺とは異なり、朱色の鳥居も大分落ち着いた色になっている。神社の隣には「湧玉池」という富士山からの湧き水でできた、小さいけれど小さな池があった。

その後「田子の浦」に向かった。
小学校時代、百人一首大会のために百人一首を憶えた。
「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」
は百人一首の中でも早期に作られた歌であり、今でもソラで言える。(なお、こちらは平安時代に改編されたもの。改悪との評もあるが、音の流れとしては原作より詠いやすい)現代の私も富士山の美しさに感動したのだから、1300年前の人間も感動したのだろうな、と思う。カーナビの示した史跡に行ったら、工業団地の中に小さな石碑が建っていた。残念ながら、田子の浦にうち出でてみた頃には、富士には雲がかぶり、全貌は見られなくなっていた。

その後は延々と高速で帰宅。敢えて少し遠回りして、ETC専用出入り口の「富士川SA」から高速に入ったが、いきなり渋滞に巻き込まれウンザリした。しかし、渋滞となったのはその近辺だけで、それ以外は足柄SAくらいまでは比較的順調に走ることが出来た。しかし、東京に近づくにつれて、交通量も増えていき、しかも2箇所くらいで交通事故が起こったため数kmの渋滞に巻き込まれた。2日前の首都高速での渋滞に比べれば何ということは無いが、片側3車線もあって渋滞になる交通量には恐れ入った。また、渋滞で車が動かないと眠気に襲われるが、居眠り運転で交通事故でも起こした日には、この渋滞の中助けを呼ばなければならないのかと思うとゾッとした。
首都高速でもまたもや渋滞。電光掲示板を見たら、渋谷から都心まで高速で30分、下道で40分かかるのだそうだ。高速の意義って何?と思ってしまった。多分行きと同じ道を通ったと思うのだが、行きは夜だったため、同じなのかどうかすらよく分からない。首都高速は、渋滞すると20km/hくらいで走らなければならないのに、いざ車が途切れると、どの車も100km/hくらいで走り出す。ギャンブルみたいな道路だ。アクアラインを通るプランは、時間が足りず諦めた。

結局途中のPAで30分くらい寝ていたこともあって、いわきに着いたのは19時過ぎになってしまった。

走行距離:
3月20日 280km
3月21日 120km
3月22日 410km

渋滞には参ったけれど、ウォークマンを車内で流して、眠くなったら曲に合わせて歌っていたら、それほど苦もなく運転できた。多分私は、車の運転が好きなのだろう。

樹海③ 3月21日 富士山麓

朝に宿を出掛けようとすると、車のフロントガラスにゴミがつき、道路は濡れ、外に置いていた物も、風で飛ばされていた。確かに昨晩も大分風が強かったが、更に雨も降り出して、ちょっとした嵐のようになっていたようだ。

昨日、宿で「猿橋」という橋のパンフレットを見掛けた。「日本三大奇橋」と呼ばれ、岩国の錦帯橋と並び、名所と言われているらしい。私はその存在を全く知らなかった。しかし、旅程の途中にもあることから、寄ってみることにした。行ってみると、猿橋自体も橋の下に瓦葺きとなった不思議な橋だったが、橋のある場所も渓谷となっていて、良い景色だった。渓谷の少し上流になると、普通の河原になっていてそのコントラストが面白かった。

その後「山梨県リニア見学センター」に行った。入ると、最初に入場者の出身地の記入を求められた。リニアモーターカーに対する国民の関心の高さでも調べる気なのだろうか。残念ながら本日はリニアモーターカーの試運転は行っていない。というよりも、去年の10月から、実験線を延長するために試運転を中止しているのだという。今度いつ試運転を行うかは良く分からない、詳しくはJR東海のサイトを見てくれ、とのことだった。実際にリニアモーターカーを建設・運用するのはJR東海であり、この施設は山梨県の施設であり、あくまで山梨のためにリニアをPRし、早期開業を目指す場所なのだ。とはいえ、PR館の職員ですら、試運転の時期を良く分からず、JR東海のサイトを確認してくれ、というのはJR東海と山梨県との連絡すらろくに取られていないのではないか、と心配してしまう。
中学校の同級生に鉄道好きがおり、「リニアモーターカーは東京と名古屋、大阪を結ぶことがメインとなってしまい、地域を線で結ぶという鉄道の特性が活かされない」と言っていた。しかし、東京-大阪の輸送力は点と点を結ぶだけでも年間2400万人が移動する、世界でも類を見ない区間なので、仮に点と点を結ぶ物であっても、十分にペイしてしまうのだ。
私が見学センターに着いたときは数人の親子連れが来ていた程度だったが、次第に高齢者の団体のような人達も来て、かなり賑わっていた。また、サブレなど、お土産もここで購入した。
辺りは白い靄が立ちこめていた。そのせいで、本当は見られるはずの富士山も、どこにあるのかすら分からない。私はてっきり霧に包まれているのかと思ったら、靄の原因は黄砂だという。確かに、霧にしてはうっすらと黄色がかっている。霧などで富士山が見えなくなることはそれなりにあるけれど、黄砂で見えなくなることは珍しい、と言われた。

その後富士吉田に行く。「ふじやまビール」製造工場で、山梨名物の「ほうとう」を食べ、地ビールを購入する。1本2Lくらいの大きな缶麦酒だった。昼くらいになると黄砂も晴れて、富士山の全貌を見ることが出来た。私は今まで富士山を見るのは、東海道本線に乗って窓から眺める程度だった。改めて眺めてみると、本当に見事な左右対称の擂り鉢型をしており、美しかった。世界一高いエベレストは、ヒマラヤ山脈の一員のはずである。富士山が素晴らしいのは、日本一の高さであることに加え、単独峰で、富士山だけが美しく聳え立っている事だと思う。

その後、浅間大社に立ち寄る。ここから富士山への登山道もあるそうな。
それからは、「富士五湖」と呼ばれる湖のうち、河口湖、西湖の周りを走った。河口湖の周りはホテルや土産物屋が林立しており、上高地や湯布院を連想させた。走りながらも、富士山の眺めが見事で、何度か車を停めて富士山をじっくりと見た。

その後、「西湖蝙蝠穴」に行き、そこで「青木ヶ原ネイチャーガイド」を申し込んだ。500円で1時間の樹海の案内をして貰える。樹海の木の案内、洞窟から冷風が吹き出て、洞窟の前には雪が残ること、樹海の岩は磁気を帯びた玄武岩であるため、磁石にくっつくことなど教えて貰い、興味深かった。車を運転しているときは日差しもあり大分暖かかったのだが、樹海の中は大分寒かった。ツアーが終わるとき、丁度山梨県警の車が来た。自殺者を出さないために巡回に来ているのだという。やはり樹海では年間数十人が自殺しているという。自殺する人は決まって、歩道から数十メートルしか奥に進んでいない所で頸を吊るのだという。自殺しても早く誰かに見つけて欲しい、という気持ちがあるためらしい。それならば何も樹海で自殺しなくても良いのに、と思ってしまった。

西湖蝙蝠穴には、富士山の成り立ちも説明書きされていた。富士山の麓には「剗の海」(せのうみ)という湖が広がっていたが、富士山の噴火により溶岩が流れ、せの海が西湖、精進湖などに分かれたのだという。その時代は西暦800年頃。古文書に富士山噴火により湖が分かれた様子が書かれているのだという。書物に記録が残るような時代に富士山が噴火していたというのは不思議な気持ちだ。

その後、鳴沢氷穴、富岳風穴に潜る。昔はそこに雪を貯蔵し、夏になると貴族や天皇などに氷を届けていたのだという。昭和30年頃まで、この洞窟は種や蚕の冷所保存のために使われていた。今は観光客の増加と、氷をわざわざライトアップするため、氷がどんどんと溶けてしまい、外部から氷を入れているのだという。この辺り、「富士山は人手が入りすぎて、自然遺産として登録できない」と言われる所以なのかもしれないと思った。
鳴沢氷穴付近には、オウム真理教事件で一躍有名になった上九一色村がある。現在は市町村合併で存在しないが、私のカーナビはデータが古く、現住所が上九一色村と表示されていた。(なお、上九一色村が合併で消えたのは2006年。)昨日はカーナビのデータが古いために無駄に都心を走って渋滞に巻き込まれたが、今日はデータが古いお蔭で15年前に話題になった場所を偲ぶことが出来た。

2つの洞窟を出ると、既に17時になっていた。本栖湖にも寄り、旧5000円札に描かれた富士山のモデルとなった景色を見た。流石に水面に富士が映る、ということは無かったが、雲一つ無い富士山の姿をここでも見られたのは幸せだった。丁度日が暮れる所で、富士が次第に暗くなっていく姿を、他20人くらいの見物人と一緒に眺めた。

その後は富士宮の宿まで向かう。途中「白糸の滝」にも寄ったが、暗くて展望がきかなかった。明日はいわきに戻るだけなので、朝観に行こう、と思った。

宿泊した「富嶽温泉 花の湯」は、健康ランドにビジネスホテルが隣接したような施設だった。
宿泊施設の中にある食堂でやきそばと御殿場ビールを頼む。富士宮焼きそばは、「ご当地B級グルメ」発祥の食べ物とも知られている。横手もやきそばで町おこしを図ったとして有名だが、富士宮焼きそばも、焼きそばに鰹節を振りかける、独特な食べ方をするらしい。感想としては、鰹節がきいていて、そこそこ旨かった。また御殿場麦酒も、「ピルス」という無難なタイプを選んだためか、特に目立った特徴は感じなかったが、普通に旨く、ゆっくり味わいながら飲んだ。

樹海② 3月20日 首都低速

8時半まで当直を行う。休前日の当直の宿命とは言え、2時間くらいしか寝られない。
14時に仮眠から目覚め、ブラックコーヒーを飲み、出発する。
14:10に自宅を出て、16時には、三郷IC近くのSAに到着した。あまりに順調な走りに
(これだと早く着きすぎてしまうから、首都高速では少し渋滞しているくらいが良いな。)
と思ってしまった。実際はその後とんでもない渋滞に巻き込まれて、少しくらいの渋滞なら……などと望んでしまった自分を叱りたくなる。

三郷ICに入る前から、渋滞となり、ブレーキを踏むことが多くなった。料金所が8列くらいあるが、どれも並んでいる。最初は料金支払いのために混雑しているのかと思ったのだが、実は、殆どの車はETCを装着しており、料金所がボトルネックになっているわけではなかった。料金所が8列あるにも関わらずその先が2か3車線くらいしか無いため、車の流れが滞っているのである。

18時の時点で、定刻の19時に宿に着くのは不可能と判断し、宿に連絡した。渋滞に巻き込まれて到着が遅れる旨を話すと、今どこにいるのか尋ねられた。東京とだけ応えると
「まだまだ掛かりますね。」
と言われた。

そのときは1時間くらいしか遅れないだろう、高をくくっていた。そもそも、事前にいわきから大月までは300kmほどで、高速道路のサイトで所要時間を調べても、それほど大きな渋滞は記載されていなかったのだ。首都高速は、昔言われていた通り、ICの出口が左側だけでなく右側になる場合もある。また首都高速自体が平面でクロスする、という場面もあった。小菅JCTと堀切JCTは、僅か700mの間に、東北道と常磐道が合流し、東京行きと千葉行きに分岐する。東北道から千葉へ行く車と、常磐道から東京へ向かう車は、この700mで交差しなければならない。渋滞で車が入り乱れていることもあるが、危ないことこの上ない。病院の先輩が以前首都高速を走ったとき、同じ道を何度も通ってしまった、と言う話を噂で聞いたことがある。確かにカーナビがなかったら、矢鱈と見知らぬIC、JCTばかりで、一体どこを行けば良いのか分からなくなってしまうだろう。もっとも、暫く走ってから気付いたのだけど、私は本来は田端とかの、都心の北側を通る予定だったのだが、知らないうちに両国、銀座、皇居と言った都心ど真ん中を通ることになっていた。多分、これが20kmほどの渋滞に巻き込まれた一因だろう。この日首都高速はどの路線も多少の渋滞はあったのだが、銀座付近の渋滞の方がより著しかったのではないかと思う。本来通る予定の道を通らなかったのは、カーナビがその道を示さなかったからである。その理由は、カーナビには池袋-新宿の路線がまだ開通していなかったのである。現在未だに、環状高速道路は完成していない。池袋-新宿ラインが出来て多少のバイパスが出来たとはいえ、未だに京葉道路、常磐道、東北道、上越道、中央道、東海道を繋ぐ道が、皇居ラインしかない、ということもある。何だかんだ言っても東京の高速道路は未だに貧弱である。バイパスがないために不要の自動車が都心に走り込んでいる

多分、両国から皇居の脇を通って、信濃町を経由し、新宿に到るまで2時間以上掛かったと思う。中央線を使えば30分で着いてしまうことを考えると、なるほど東京では「車はステータス」と言われる程、実用としては電車に劣っていることに納得する。今まで首都高速というのは、外からノロノロと走る様子を眺めるだけだったが、今は自分がそのノロノロに混ざっている。多分、外から見たら車のライトでさぞや綺麗な夜景になっていることだろう。膨大なガソリンと運転手の精神的余裕を浪費する高価なイルミネーションである。
高速道路というのは誰も住んでいないような田舎を通るもの、というイメージだったので、ビルの谷間を高速で走るのは不思議である。また、ビルの看板が矢鱈と目立つ。首都高速を走っている人を対象にした看板だった。看板なんてものは、駅のホームなどじっと立ち止まるようなところに置かれるのが普通だ。しかも、車を運転している人間は運転に熱中しているから看板を見る余裕なんて無い筈だ。それが、高速を運転している人相手の広告看板が成立するだなんて、首都高速はどれだけ普段から渋滞しているのだろう、と思ってしまった。
また、走っていると、後ろから救急車が来て道を譲った。いわきのように、救命センターが周囲50kmに存在しない所ならまだしも、東京でも救急車が高速を使わなければいけないだなんて、一体どこからどこに行くつもりなのだろうかと不思議に感じた。

八王子を過ぎた当たりから、車も空いてきた。また、先程までは道路の両脇に街灯が照っていた。どこかで見た風景だと思ったら、子供の頃に読んだ「おしいれのぼうけん」にそんな風景があった気がする。周りに建物もないのに、道だけが通り、その両脇に街灯が等間隔に並んでいる絵だ。いつの間にか街灯が消え、暗い中を走ることになる。八王子を過ぎると、間もなく目的の上野原ICに到着した。

その後、カーナビにも載っていないような細道を進み、21時45分頃、宿に到着した。予約していた夕食を食べる。鮎の塩焼き、山菜など、料理はかなり豪華だった。

樹海に行ってきました①┗(^o^ )┓

土日と春分の日を含んだ3連休に休みを貰えたので、旅行に出かけた。

民主党に政権が交代してから、高速道路の休日上限1000円という制度が廃止になることになった。そこで、廃止になる前に、高速道路を乗り倒そう、という気になった。そこで、以下の条件を元に、旅行のプランを立てた。
  • 高速道路で極力長距離を運転できること
  • 鉄道では行くことが難しい場所にすること
  • 運転が難しいと評判の首都高速を走ること
  • 財政の無駄遣いと言われつつも、海底トンネルとして一定の人気を博しているアクアラインを走ること
  • 日本の輸送の大動脈である東名高速道を走って、その走行量を実感すること
その上で、観光する場所を選定した。
3連休と言っても、金曜日の夜は当直があるので、土曜日に行動が可能なのは半日程度である。
筑波、偕楽園、草津温泉、富岡製糸工場、成田空港、百里空港、白川郷に行くことも検討した。
白川郷に関しては、片道で600kmくらいになった。自分の運転能力を考えれば、不可能ではないが、当直後と言うことを考えるとかなりきつい。例えばこれば、2人の旅行で、自分が寝ている間相方が運転してくれる、というのであれば大分話も変わっただろうが、あいにく私には一緒に旅に行くような仲間はいない。

月曜日に図書館に行き、山梨、静岡、群馬、会津、箱根、伊豆のるるぶと共に、「ファミリーで楽しめる関東ドライブコースはここだ」という本を借りた。それを呼んだら、中央自動車道のインターチェンジから出発し、6時間ほど運転して東名高速道のインターチェンジに至る、というコースを見つけた。折角なのだから、出来るだけ往復で別のルートにしたい、と思っていた私は、このルートを基軸にプランを立てることにした。

すると、河口湖から富士宮に到るモデルコースの周囲にはリニアモーターカーの展示館があり、周辺には温泉施設があり、と、私が予想した以上に面白そうな物が揃っていることに気付いた。最初はGoogle mapとインターネットによる情報収集だったが、流石に商用の本は情報が充実していると思った。

計画としては以下のようなものになる。

○3月20日


自宅出発 14:00
いわきIC
上野原IC 17:30 44.6km
民宿 泊

○3月21日


リニア見学センター 10:00
青木ヶ原樹海ネイチャーガイド
鳴沢氷穴、富岳風穴 15:46
白糸の滝 17:00

夕食:富士宮焼きそば

○3月22日


富士山本宮浅間大社 8:00
田子の浦 10:00
東京IC 11:20
三郷JCT 12:10
いわき 14:004:46、347km
アクアライン経由の所要時間:416km、6:17




といった感じである。
往復をいわき-山梨、静岡-いわきに費やし、更に富士宮市は身延線沿いという、普段ならばまず訪れない場所だろうし、しかもリニアモーターカーと樹海という、鉄道研究会、ワンデルング会に身を置いた人間としては、これ以上ない場所である。

旅行の記録は後日。

10年後の自分へ

中学校を卒業する頃に、国語の先生から
「10年後の自分に手紙を書こう。」
と言われ、10年後の自分への手紙を封筒に入れた。

去年の正月の同級会の時に
「中学校を卒業するときに10年後の自分への手紙を書いたけれど、それってそろそろ届く頃だよね。」
「書いた、書いた!」
といったやりとりがあった。その後も音沙汰はなく、私が欠席した夏の同級会の時も、この手紙のことが話題になったらしい。先生も、もう忘れてしまったのかな、と思っていたら、去年の大晦日になって届いたらしい。

○出世頭


同級生の根田君に関して「彼は将来世界を股にかけて活躍しているだろうから、消息が分かったらしっかりとチェックしておくこと」と書かれていた。当時私は彼の言動、絵に心酔しており、その影響を直に受けて書いた文章と言えるが、私の先見の明に驚いた。彼はまさに10年経った去年になって、漫画家として開花して全国誌のジャンプでデビューを果たしたのだった。今日(2/15)発売の週刊ジャンプに、「こち亀」「BLEACH」などの有名な漫画に交じって、中間カラーでの掲載を果たしているので是非是非確認して欲しい。ジャンプに掲載されたのは、もちろん本人の実力(ひょっとしたら運も)も大切だったろう。しかし、漫画家という夢に向かって諦めなかった彼の執念深さ、根気が実を結んだものだと思う。

○未来予想


改めて読み返してみると、まず2000年問題について心配していた。確かに、その頃は1999年で、2000年問題が新聞などで指摘されていた記憶がある。そういえば1999年と言えば7月に「ノストラダムスの大予言」で7月に恐怖の大王が降臨する、などと噂されていたはずなのだが、10年前の私の手紙には、ノストラダムスに関しては、一切書かれていなかった。大予言など全く信じていなかったというのが、私らしいといえば私らしかった。

10年前の手紙の内容は殆ど忘れていたが、コギャルの未来を案じていたことは微かに覚えていた。自分よりも、僅か2、3年年上なのに、異形の姿(ガングロとか、分厚い化粧とかルーズソックスとか)をしていた人達は、10年経って27歳位になったときに母親となって落ち着いているのか、それともコギャルのような格好を続けているのだろうか、と思ったのだ。
10年経った現在、振り返ってみると、現在も化粧の濃い高校生は存在する。しかし、ガングロといったような異形の姿の女子高校生は見なくなった。最近の高校生の足下は見ていないけれど、ルーズソックスはいい加減廃れてきたと思う。

○連綿と続く伝統


また文中にて私は「漢字、縦書き、B5版などの伝統を守っていくべきである。」と書いていた。いずれも、電脳化の進んだ現代において、次第に廃れていった物である。しかし、他人に送る手紙は未だに縦書きが基本であるし、一部の人間に対しては旧字体を使用しているので、10年前の希望通りの人間になったともいえる。流石にB5版に関しては、使わなくなっている流れになっているので、なかなか使っていないが。

更に、文中において西暦と共に皇紀を併用していた。皇紀を使用しだしたのは、大学の仲間に影響されてからだと思っていたので、当時から皇紀を使用していたのは意外だった。2月11日に大学の同級生から、紀元節奉祝のメールが届く辺り、10年前と変わっていないどころか、むしろ重症化したかもしれない。

○10年後の自分


10年前、同級生にメッセージをお願いしていた。そちらは敢えて中身を確認せずに封筒に同封していた。だから、10年後に初めて同級生からのメッセージを読んだことになる。

同級生からのメッセージでは、「10年後、医者か研究者になっていそう」と書いている人が何人もいた。10年前からそんな風に思われていたというのは意外だった。私自身、当時から医者になることは夢見ていたのだが、自分の学力から、現役で医学部に入ることは端から諦め、(こんなに上手く行く訳無いよね)と思って、誰にも伝えずにいた。そこで、卒業文集での「10年後の自分」では、大嘘として、根田君と一緒に国会議員になっている、と書いた。

10年前の手紙について、他の同級生にも届いたようで、何人かその報告をしていた。ある人は
「自分の一人称を『俺』と書いていた。恥ずかしい。」
とmixiの日記に書いていた。

私はというと、文字についても、多少稚拙であるが現在の字体を想像させるようなものであったし、文章の中身も別に恥ずかしいものではなかった。一方で、だからこそ「恥ずかしい」という気持ちになるのだ。私は10年後の自分も、国会議員になる、といった茶化したものを書いていたし、自分宛の手紙も、10年後の自分の抱負を書かずに、日本の将来といった漠然としたものであった。私は10年前から既に、失敗を恐れ、夢を語ることを恐れていたのだった。

先日「ズッコケ三人組の未来報告」を読んだ。小学6年生の主人公達が20年後の未来予想図を描きタイムカプセルに入れ、20年後にそのタイムカプセルを開ける話である。。巻末には香山リカのコメントが書かれていた。
「昔の夢は、それが実現しなくても、当時の夢を抱きつつ生きてきた人生を何ら恥ずべきではない」
全く同感だと思う。

これからは失敗を恐れずに自分の未来予想図を描き進んでいきたい、と思った。
10年前からの手紙1
10年前からの手紙2
10年前からの手紙3

大二

以前に、ほんの僅かな人に伝えたけれど、ようやく大型二種免許を取得致しました。
大型二種免許というのは、簡単に言ってしまえば「バスの運転免許」です。

そもそも、私が大学時代に所属していた鉄道研究会には車好きの先輩が多く、るーちぇ先輩は大型一種免許(トラックの運転免許)、こまち先輩は普通二種AT限定(タクシーの運転免許)を在学中に取得しています。(なお、2人とも現在、運転免許とは全然関係ない職業に就いていらっしゃいます)そんなことから私も普通車以外の運転免許に漠然と憧れていました。

月10回の当日直というハードスケジュールで疲れ果て、10月に比較的時間に余裕のある精神科での研修が始まったとき、折角時間があるのならば新しいことに挑戦しようと思いました。そんなとき、通りの自動車学校の看板に
「普通免許から大型二種の免許を取得できます。」
と書かれていて、これだ、と思いました。運の良いことに、その自動車学校は1ヶ月半の精神科研修を行った精神病院から300mという非常に近所に位置していたのです。
本当に大型二種にするのか、(大型一種や普通二種にしないのか)多少迷いましたが、何よりバスを運転してみたいこと、大型二種は大型一種と普通二種を内包している――つまり大型二種の免許を取得すれば、バス、トラック、タクシーの全てを運転可能だが、大型一種ではバス、タクシーを運転できないし、普通二種ではバス、トラックを運転できない――ことから大型二種を取ることにしました。

そんな訳で10月から教習の開始。医者をやっていると、救急救命の学科を受けなくて良いので少し学科の料金が安くなり、医師免許を取っていて良かったと思いました。ただ、何かと
「何で医者やっているのに、免許を取るの?」
「医者で自動二輪の免許を取る人は見たことがあるけれど、大型二種の免許を取るのを見たことはないなぁ」
と散々言われ、答えに窮しました。
ただ、最近はホームヘルパーが普通二種の免許を取得し、介護タクシーを運転することがあるそうです。私も将来、検診車で旅客運輸を行う日が来ないとも限りません。

もともと要領が悪いので みきわめ も何度も不合格を繰り返し、卒業検定も2回落第しました。つくづく自分には運転の才能がないなぁ、と思いつつ、11月半ばに3回目にしてようやく合格しました。
その後免許センターで学科試験と免許の交付があるのですが、免許はいわきから80km離れた郡山でないと交付されず、また誕生日が12月だったこともあり、1ヶ月待ってから郡山に行くことにしました。

新規免許取得者の部屋は20歳前後の若者が多く、自分は少し年寄りの気分でした。

免許証は、今年からICチップが挿入され、やや厚くなっていました。また、大型免許の取得に伴い、中型車の限定が解除されていました。(5年ほど前の道路交通法改訂で、普通車の定義が変わったため)服が去年と全然替わっていないのは偶然です。


before

after


先日免許取得のことを後輩の研修医に話したら
「凄いとは思いますが、全っ然尊敬できません」」
と最大限の賛辞をもらいました。

なお、私が1ヶ月半通った平中央自動車学校は、アットホームな雰囲気で楽しかった、と宣伝しておきます。もっとも、18歳の頃に免許を取ったのに比べ、生徒としての私も多少経験を積んで余裕を持って車を運転できるようになっていたことも要因かもしれません。

Marlboro

勤務先の先輩がMarlboroの煙草を吸っていたので
「マルボーローですね」

と言ったら、
「マールボロだ。なんで『玉子ボーロ』みたいな発音なんだよ。」

と笑われた。

25年間生きてきて、初めて知ったMarlboroの発音。
ちなみに、「マルボーロー」は佐賀のお菓子らしい。
誰か佐賀に行ったら、マールボロはいらないので、マルボーロー、買ってきて下さい。

研修に関して

「大変だ。」と言われる研修医になったけれど、本当に大変です。


具体的に今週の勤務研修(研修医は労働者ではありませぬ。人でないかもしれませぬ。)時時間帯を表にすると

月 8:30 ~ 22:00
火 6:00 ~ 22:30
水 6:00 ~ 19:00(歓迎会 -25:00)
木 8:00 ~ 25:00
金 8:00 ~ 26:30

ちなみに火曜日の日程
5:00 起床。卵ご飯、味噌汁を食べる
6:00 採血の練習。全然とれない
6:30 朝回診。患者さんは大体起きている
8:00 研修医室でパソコンと戯れる
9:00 DSA(血管造影)
12:00 CTU(ICUみたいなところ)で病状説明を見学させて貰う
13:00 昼食。赤飯のおにぎり2つ
13:20 ERCP(内視鏡的逆行性胆管水管造営検査)
16:30 回診
17:30 外科カンファレンス
18:00 回診
19:30 書類作成
22:30 病棟業務終了

病院にいる時間全てが活動時間でないとはいえ、睡眠と食事以外は病院にいることになります。金曜日など、夜勤の看護婦さんを寝る前に見て、起きてから再び見たような気がします。

遅くなる原因の1つは、仕事の多さ。
私はとある医師のもとで研修しているのですが、その医師は常に15~20人ほどの患者さんを抱えています。そして、9時から5時までは検査や外来があるので、入院患者に関する仕事は基本的に時間外労働のうちになります。私はまだ処方箋の出し方も分からないので、その行動に付き合うことになります。

そして指導医。
丁寧で優しい良い先生なのですが、19時を過ぎると、10秒間のうち3秒間は夢の世界に突入するため、仕事の効率が半分になります。今日は私もキレぎみになりました。

ただ、仮に仕事効率が2倍になったとしても、終了は22時くらいでしょう。第2の原因としては、雑務の多さ。更に言ってしまえば、コピペの多さと情報の乱雑さ。
検査1つ出すにしても、その患者さんの血液データを手書きで書かねばなりません。誰でも(パソコンでも)出来るようなことに労働力が割かれています。
また、情報も非常に雑多に管理されており(素人の私から見て)、点滴、薬、体温、食事、画像が全て異なる場所に保管されています。
あと、他人のカルテが読めません。自分さえ理解できたら良いという人が未だに沢山います。かくいう私も、私以外の人全員が私の文字を読めるかどうかは自信ありませんが。
これがコンピューターで一元的に管理されたら、作業効率はかなり上がると思います。電子カルテの早期導入を切に望みます。

どうか、病院で研修医を見掛けたら、
「ご苦労様」
ではなく
「ご過労様」
と声を掛けて下さい。

とはいえ、この1週間は楽しかったと思います。広島で被爆経験のある患者さんにお会いしたり、末期癌の患者さんの説明に立ち会わせて頂いたりと、非常に充実したものだったと思います。
また、私の指導医は24時頃分かれてから緊急内視鏡やCT読影を行うので私より睡眠時間は短いです。(そのかわり日中寝ている気が…)

でも疲れました。

合格しました

国家試験に合格しました。
証拠(00469番)。
大学入試の頃は、インターネット上での合格発表がようやく始まったのに、時代に流れは早いですね。

他の人は、私より優秀な人を含めて、結構緊張しながら発表を聞いていたそうですが、私は引越の方が忙しく、緊張する余裕がありませんでした。

研修医というのは、国家試験に合格するまでは仮契約みたいなもので、引越などは国家試験の結果が出てからしか行えません。つまり、28日から31日までの間に引っ越ししなさいと言うことです。もうちょっと余裕があっても良いと思うのだけど。

私に関しては、28日に荷物を単身引越パックで運び、30日にいわきに到着する予定です。

卒業式と謝恩会

○卒業式


3月25日に東北大学の卒業式と謝恩会が行われた。卒業式(学位授与式)で私は受領総代を務め、2,300人ほどの学部卒業生を代表して卒業証書(学位記)を受け取ることになっていたし、謝恩会では代表幹事を務め司会を行うことになっていた。まさしく「盆と正月が一緒に来た」状態である。更に言えば引越も控えていているので、「彼岸も来た」ようなものである。

今回私が学位記の受領総代になったのは、私が成績優秀だったからでも優れた業績を挙げたからでもない。5年前に偶然私が医学部の総代になり、各学部で持ち回りだった受領総代が偶然今年は医学部担当になったのである。我ながら相当運が良いと思う。
一方で、私は5年間総代として学校側との連絡・交渉に務めてきた。この5年間に学校関連のメールを数えてみたら全部で受信143件、送信48件であり、謝恩会関連のメールは受信289件送信336件に上った。別に私の苦労を殊更言い立てるつもりはないけれど、我ながらよく頑張ったものである。だから、受領総代になったのは運が良かったけれど、受領総代になり得るだけの学年に対する貢献はしたと自負している。

前日、私は2時間しか寝ていなかった。謝恩会のしおりをプリントするのに手間取り、28時まで起きていたためである。しおりには背景に旧制第二高等学校の蜂の校章、私が入学する頃まで慣例的に使用されていた(学生から学章を作る動きがあったのだが、当時の教授会で否決されたそうである)学章、100周年事業を記念して作成された学章、東北大学病院のシンボルマークを入れ込んだ。そういえば小学校も、高校も入学時と卒業時では校章が異なっていた。不思議な時代に生まれたものである。

朝6:30に起こされ、朝食を食べた後に藤崎の貸衣装屋に行く。鏡を見ると、僅かに目が充血し、顔に赤みがかかっていた。女性の着物は着付けや化粧に時間が掛かる上、人数も多いためため早く行く必要があるが、男性の場合は、着付けの時間も短いし人数も少ないので時間が掛からない。7:40頃に藤崎に着いたものの着付けの人が来る8時まで待たねばならなかった。

8時に着付けを始め、15分で着付けは終わった。その後、家族で写真を撮るために暫く待った。アドリアーナさん予め9時に間に合わない旨を連絡しておく。アドリアーナさんは答辞を述べる歯学部6年生である。大学1年のスペイン語のクラスで「みんなでスペイン語の名前を持とう」となって彼女はアドリアーナになった。なお、私はオクタビオであり、未だにスペイン語が一緒だった人から、その名で呼ばれる。その後タクシーで会場に向かう。まずは会場に入り、出席を申し出る。その後すぐに会場の外に出て同級生たちと会う。同級生の晴れ着(特に女の子の)を見るのは楽しく、9:45の時間が来るまであっと言う間だった。

座りながら、学位記を貰う手順をもう1度頭に思い浮かべる。すると、

階段を上る→左右の来賓に礼→総長に礼→総長の言葉→2歩前進→学位記を受け取る→1歩下がる→礼→下がる

という手順のうち、総長の言葉を受ける前に前進するのか後に前進するのか分からなくなった。アドリアーナさんに尋ねてみると、昨日貰った手順書を開いてくれて、正しい方法を教えて貰った。アドリアーナさんが
「うわー、緊張する。」
と言うので
「僕も。」
と言うと、
「でも、オクタビオは、緊張しているように見えないね。」
と言われた。
私は緊張をあまり表に出すタイプではないが、やはり相当緊張していた。

学位記授与式が始まり、各学部のトップが勢揃いする。医学部長の菅村先生は非常に気さくな先生で、研究熱心な人である。今まで知り合った教授達は、変わった人が多かったけれど、決して悪人ではなかった。そして学問に対して非常に真摯だった。そんな研究一筋の人達がいきなりこんな政治の世界に巻き込まれたら大変だろうな、とボンヤリと思った。……というのは後日の思考かもしれない。このときの私は緊張が極地に達しており、何もしなくても自分の心臓の鼓動が感じられるほどだった。

名前を呼ばれ、「ハイッ」と元気よく応える。なお、後で話を聞いて映像を確認したもので、私の記憶には無いことなのだが、私が返事をしたとき、会場に軽い笑いが起こったらしい。というのも、私の声が高く、それを知っている医学部の同級生たちが思わず失笑したらしい。これでも声を低めに抑えていたのに。
(落ち着け、落ち着け。)
と思いながら、ゆっくりと足を踏み出す。
階段を上り、赤い床布の折り目がついた所で立ち止まる。練習ではそのラインよりももう1歩ほど前方と言われたけれど、既に立ち止まってしまったので、更に進むことが出来ない。諦めて次の動作に移る。まずは左側の来賓への挨拶。主に菅村先生を見ながら行った。このときも、頭の中にあったことは
(落ち着いて、出来るだけゆっくりと振る舞おう。)
ということだった。そして、右側へ礼、総長に礼を行った。
総長が学位記を読み上げている間、笑い声が起こったので何かあったのかと思い視線を軽く上げると、私の学位記が正面のスクリーンにデカデカと写っていた。学位記を受け取るときに、マイクに腕が当たるというアクシデントがあったものの、それ以外は非常にスムーズに、特に極度の緊張の中で行った動作にしては予想以上に良い動きをすることができた。

下る前に、マニュアルには無い会場の学生達、保護者への一礼を考えていた。私が今まで総代を務めてきたのには周囲の学生の協力があったからだし、親たちへも感謝の念を伝えたいと思った。しかし、総長に尻を向けて礼をすることの非礼や、あくまでも学生を代表している自分が学生に礼をするのはおかしい気がした。更に、私がそのようなアドリブを行ったら、何らかの失敗をすることが考えられたので、素直に階段を下りることにした。

次はアドリアーナさんの答辞である。
「大丈夫。落ち着いて。」
と声を掛けて送り出す。
私はアドリアーナさんの写真を撮る約束をしていたので、一生懸命何枚も撮影した。ただ、シャッターの音が出るように設定していたので、それを切らねばと設定画面とにらめっこをしていた。運悪くその場面がスクリーンに映し出されてしまい、会場に笑いが起こる羽目になってしまった。
アドリアーナさんの答辞は、非常に素晴らしいものだった。話し方も落ち着いており、立派だった。
戻ってきて
「とても良い答辞だったよ。」
と褒めると
「話している間、お腹の虫がなっちゃったけれど、マイクに拾われていなかった?」
と心配された。

その後、総長からの挨拶である。普段は白々しく聞いている挨拶が、自分たちに向けて語られている言葉なのかと思うと、大変心に響く挨拶に感じられた。
その後、学生歌の歌唱が行われた。混声合唱部が歌い
「学生の皆さんもお歌い下さい。」
と言われたのだけど、周りの学生で歌っている者はいなかった。私は入学後のオリエンテーションで応援団が歌っているのを聞いたり、鉄研のOB総会で毎年歌っていたので、1番に関してはソラで歌える。2番以降の歌詞は知らないが、正面のスクリーンに歌詞が表示されているので、それを見ながら歌った。そしたら、3番の最後で顔がアップで写ってしまった。

最後は螢の光だった。軽く口ずさみながら今までの学生生活を振り返ってみる。色々と後悔することはあるけれど、それでも学生生活を評価すれば及第点は貰えるのでは無かろうか。そして私は総代として常に学年全体のことを考え、ひたすらに頑張ってきた。そしてそれを理解し応援してくれる同級生もいた。それを思い出していると、感極まって涙がポロリと零れた。

閉会になると、高校時代の同級生である森田君や、鉄研の後輩の伊澤君、文藝部の後輩がやって来て、先程の苦労を労って貰った。漠然と、またいつでも会えるという気持ちになるが、卒業後は皆バラバラの県に散って仕事を持つようになる。いつものように「またね」と言っているのに、その重みは全然違っていた。

会場の外には卒業生達がたまって談話していた。受領総代であることは他の卒業生にも分かるようで、面識が無いのに一緒に記念写真に収まった。私は多くの学生(特に、ここでしか会えない高校時代の同級生や部活の後輩)を探してフラフラと歩いていたら、他の人ともはぐれてしまった。そこで駅までトボトボと歩いていく。途中、佐藤均君に会ったり、見知らぬ小母さんから
「袴、素晴らしい。今日の天気も素晴らしい。」
と飴を貰う。S-PALに家族がいると分かったので、そこで昼食を食べる。

その後、学部ごとの学位授与式だ。てっきり保護者は参加できないと思っていたのに、実際は親たちがいて、慌てて親に連絡を取る。東北大学は、こういった事務連絡が他大学に比べて非常にいい加減である。偶然勝又君にも会い、学位記受領のことを褒めて貰い、大学生協の職員達にも卒業の挨拶に行く。

○謝恩会


そして、謝恩会。
「盆と正月」「正月」である。
15:50頃にバスで江陽グランドホテルに向かったのだけど、渋滞のためホテルに着いたのは16:15頃だった。写真部に取り方を再度説明し、5年生に「適当に見学して」と言い、アンサンブルに「今日は宜しく。詳しい打ち合わせはラフ氏とお願い。」と言っているうちに、他の学生も集まってきた。集合写真撮影直前になっても10人以上が来ていない、という事態が起こった。5階で集合・学生受付を行ったのだけど、集合写真の撮影を2階で行うため、学生を2階に集めていたら、まだ受付を済ませていない学生も2階にとどまってしまったためだった。
(「5階で受け付けをして」と言ったのに、どうして日本語が通用しないのだろう。)
と思いながら、大急ぎで集合写真を撮影する。
集合写真を撮っている間、受付を開けるわけに行かないので、写真部に受付を頼む。

その後急いで5階に戻り、先生達を迎え入れる。
先生が入ってきたにも関わらず、学生達は学生同士で固まっている。私は、前年度担当者が
「謝恩会は先生を接待する場である。」
と書いたことの影響を受けていた。メールでもわざわざ
「回の謝恩会は卒業祝賀会の意味合いもありますが、あくまでも先生方に感謝する場です。学生同士で固まらず、先生方と積極的に会話してください。」
とまで書いたのに。人間は1:1で付き合っているときには誠意を持って対応するけれど、1:100とかになると、途端に白痴化すると痛感した。漠然とした指示では人間は動かないのである。その点、前年度担当者は偉大だった。嫌われることを承知で、「最初の20分間は担当教官とずっと会話すること」を義務づけたのである。

まだ教官が入り続けているため、開始は18時から5分ほど遅らせた。その後は台本通りに進んだ。しかし、教授が挨拶している最中も会場内が私語でザワザワとうるさいのには閉口した。せめて挨拶の最中くらいは舞台に注目しなければ失礼ではないか。途中で
「挨拶や演奏の最中はご歓談のボリュームを少し下げるようお願いします。」
と言ったが効果は無かった。

スタッフは自分も教官に最後の挨拶をしたい気持ちをグッと抑え、各自の仕事をしてくれた。結局の所、最初から最後まで、仕事は少人数に集中することになってしまった。結局リーダーである私が振り分けなかったのが元凶なのである。今になって、他の6年生や、下級生達にも積極的に協力を依頼すれば良かったと悔やまれる。

閉会が近づき、花を渡す段になったが、
「学生は担当教官に花をお渡し下さい。」
(これは学生に対する敬語であり、日本語として間違っている)と言った所、
そのまま散会となってしまった。
慌てて引き留め、ラフ氏に閉会の辞を述べて貰った。最後にこのように混乱が起こったことは、まさしく「自身の不徳と致す所」であった。しかし、そういったことも含め、沢山の粗相も教官達、学生達も笑って過ごしてくれたことは非常に有り難かった。

最後の後始末も残っており、ネームプレートの整理など、委員でない同級生に手伝って貰い、ようやく片付けることが出来た。彼らは他の同級生が二次会に行っているにもかかわらず、仕事を自主的に手伝ってくれて本当に有り難かった。

2次会の後、店の前にいたら、見知らぬ人から名前を呼ばれた。彼らは東北大学の卒業生で、私が袴のままで街をうろついていたので気付いたようだ。何故か同級生ばかりでなく見知らぬ人達からも胴上げをして貰う。

帰宅したのは27時だった。その後、ビデオを見て、それをHDに録画しているうちに寝てしまい、これでは駄目だと思い、袴も脱ぎ捨てたまま上に行って寝た。それを妹が片付けてくれたとのことである。
起きたのは11時。8時間の間、1度も目が覚めずに眠り続けた。よほど今までの緊張が強く、疲労が強かったのだろう。

○余談ながら
今日になってようやく明日が国家試験の発表日だと気付いた。だが、未だにどうやって合否を確認するのか分からない。それに明日は引越の荷物の発送で忙しそうであり、確認する暇が無いかもしれない。私の受験番号は00469なので、もし合否が分かったら連絡して下さい。



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砧音月

著者・管理人:砧音月
東北の病院に就業中
2008年卒業

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